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6年間で10分間しか喋らなかった私

小学生の時、私は学校で声を出すことができなかった。

今でこそ声が大きくてよく笑い,うるさい時に真っ先に注意されるのは決まって私。エアロビのインストラクターも経験して、人前で「フゥー!」なんて叫びながら踊り狂ったりもできる。

そんな私が小学生の時に学校で喋ることができなかったことを,周囲の人は誰も信じてくれない。でも本当なのだ、学校で私がかんもくだったこと。

声を出そうとすると言葉が奥に引っ込んで、頭の中が真っ白になる。喉が丸ごと無くなった感覚、言葉が全く出てこなかった。

でも不思議なことに、家庭や近所の遊び場では普通に喋ることができたのだ。場面性緘黙(かんもく)症というらしい。この症状に名前があることを,大人になってから知った。

今でこそ、私を知る誰もが私を子どもの頃から陽キャラだと思うに違いないが、小学校時代は岩だった。椅子に座ったが最後、微動だにせずじっと授業の終わりを待つ岩だった。一応教科書は出すけど。

なんとか声が出せるのは「うん」と「ううん」。6年間の学校生活をほぼこの二つで乗り切ったので、声を出した時間は計10分くらい。学校で友達はいなかった。

先生からの「好きな者同士でグループ作って!」は地獄の大号令で、その度に胸がキリリと痛んだ。私をどのグループに入れるか皆で押し付け合う事態を見つめるのがしんどかった。給食時の大号令ならまだ黙って食べていれば良いのだけど、問題はグループ学習の時。

地獄の大号令と私を巡る押し問答の末、しぶしぶ私を受け入れることになったグループで、私は岩になる。なんとか課題を振り分けてもらっても、私は分からないことを質問できない。結局、的外れなことをして、グループの分担から外されてまた岩になる。

自分が情けなく、悔しい思いをしてきた。特売品のイクラくらい、脆くて壊れやすかった小学生の私。話せないまま大人になることがずっと怖くて、苦しかった。

でもそれを打ち破って,人と一緒に色んなことを笑い飛ばせるようになったのは、たくさんの人たちが辛抱強く私の成長を助けてくれたからだ。

私をゆっくり待ってくれた周りの大人たち、
話せなくてもそばに居てくれた友達、
安心できる環境をくれた人、
機会をくれた上司。

ここで発信するのは支えてくれた人への感謝と、かんもくへの理解が深まったら、それで誰かが声を出せる機会に繋がったら、嬉しい。

だから、少しずつ書いてみよう。
かんもくのこと、助けてくれた人のこと。


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