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チマ男というのは、常に整理整頓し、効率的・合理的に生活し、何事もきちんと処理する男性。

ガサ子というのは、いつもなにかを探していたり、服にパスタのソースがこぼれていたりする、おおざっぱでだらしなく、ガサツな女性。

…というのは、私が名付けたのではなくて、最近読んだ小説のタイトルです。

重松清さんの「日曜日の夕刊」という短編集の中の1つの話。重松清さんは小学校の教科書にも登場する、子供にとっても読みやすいストーリーや文体の作家さん。中学受験の国語にも度々登場するので、ちょっと読んで見ようかなと図書館で借りたのが「日曜日の夕刊」でした。

全体的に読みやすかったけど、一番おもしろかったのは、冒頭に紹介した「チマ男とガサ子」。性格も生活スタイルも正反対の男女が出会い、交際することになるものの、徐々にすれ違っていき…というお話です。

「アハハ!」と笑っちゃうくらいおもしろくて、小5長女に「ねぇねぇ、これめっちゃおもろいでー」と見せてみたら、長女も爆笑で、「学校で朝読書する時に読みたい!」と言って、翌日、小学校に持っていきました。

さて、話をもどして、「チマ男とガサ子」。

夫婦、恋人、友人、きょうだい…男女に限らず、2人以上の人が集まって、相対的に考えれば、誰もが「チマ男」「チマ子」「ガサ男」「ガサ子」になるわけですね。どっちにどれくらいという振れ幅は、当然異なるわけですが。

みなさんはどれでしょう?

「チマ男とガサ子」を読んで、私がわらってしまった理由の1つは、私と夫の関係にそっくりだったから。つまり、「チマ男」=夫、「ガサ子」=私ってことです。

この話に登場する「チマ男」のように、夫は食べたお菓子(たとえばカントリーマアム」)の袋を細くただんで棒状にして、それをくるっと結びます。夫(と、ガサ男)いわく、「ゴミの容量がへっていいよ」ということらしい。

なので、わがやだと、夫が食べたお菓子のゴミだけは、きれいにたたんで結ばれているので、食べた人がすぐに判明することになります。言い逃れの余地ありません。

一方の私は、「ガサ子」と同じく、パスタや醤油をこぼしたり、テーブルのコップをたおしたり、電車を乗り間違えたりがしょっちゅう(;^_^A

これってほんと自分でも謎。ものすごーーーく気を付けているんですが。どうしてもどうしても治らないので、家族以外と出かける時は、こぼすこと前提で白い服は避けています…。

こないだnoteに書いた「神奈川私立男子校フェア」に長男とでかけたときも、行きの電車を乗り間違えて、ギリギリに現地着。しかも、途中の駅のホームで、洋服を裏表逆に着ていることに気が付いて、駅のトイレで着替えるというミスも…!長男は何も言わず、こんなバタバタな私に静かについてきてくれました…。常に冷静な長男。私のおかげで日々トラブルを経験しているせいか…?

そんな夫と私ですが、出会って16年、結婚して13年という時を経て、今どうなっているかというと、夫は「ガサ男よりのチマ男」になり、私は「チマ子よりのガサ子」になったかなぁと思います。

結論からいうと、「一緒に生活しているとお互い影響を受けるので、変化する。ただし、範囲は限定的。」というところかな?

取り入れやすい(意識・無意識かかわらず)ことは、取り入れられていくけれど、そうでないものはそのままですね。

でも、これが恋愛関係(という年齢でもないけど)のおもしろいところで、変わらない(変われない)ところが、逆に愛しく思えたり、かわいく感じたりしますよね。私は「チマ男」だった夫が「ガサ男よりのチマ男」になろうが、「超チマ男」になろうが、夫という存在が大好きです。

ものをなくすこと、コップを倒しちゃうこと、お菓子のゴミを折りたたむこと、そういう目に見えることは、あんまり重要じゃないと思います。大切なのは、その人と一緒にいるときの自分の気持ち。そういう、目に見えないことですよね。

小説の中の「チマ男とガサ子」は、どういう結末を迎えたと思いますか?

気になる方は読んでみて下さいね~




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