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【メンブレ注意】就職して3日で母親が亡くなった話①【これまでの経過編その1】

こんにちは。今週の輝けないワセジョです。Twitterを見ている方は既にだいぶお察しの通り、うちの母親が4/3の23:55に永眠しました。57歳でした。今回は自分が治療法がほとんどゼロに近い病気で余命宣告され、我々家族はどんな決断をしたのか、そしてもし20代で親を亡くしたらどうすればいいか?をまとめる目的のもと書いていきます。今回から2〜3回にわたって、備忘録から書いていきたいと思います。
 

1.登場人物

ここで簡単に

父: 1964年生まれ。かなりメンブレしやすい。高専進学から40年以上、薬はエビデンスの塊だからら薬しか勝たないと信じている。当然、医療についてはとにかくやれる治療は苦しくてもぜんぶやって、医科向け薬に囲まれて死ぬのが最期の夢だそう。患者本人が何と言おうとも、薬を使いまくるのがいい、俺についてこいタイプの医者がタイプ。

母:1964年生まれ。理論よりとりあえず行動派。医療については批判的思考があり、BCGワクチンや抗がん剤などについては批判的に見ている。また、苦しいのはとにかく嫌で胃カメラも大腸カメラも嫌、CTは放射能が気になるので鬱らしい。自分が納得いくなら、ノー医科向けの薬で死ぬのも本望だそう。俺についてこいタイプの医者は嫌いで、共感してくれる医者が好き。

私:1996年生まれの女。頭はよろしくないが、父親同様理屈がないと行動はしたくない。医療については、基本的に婦人科の内診イヤイヤ病からもお察しの通り、苦しいことは嫌い。ただ、それやらないと死ぬならやるっきゃないと思える。しかし、人権として患者の意見は絶対尊重派。個人的には、(最低な思想だとは分かっているが)親の金を使いまくってでも体の負担が少ない先進医療(抗がん剤含)しまくり、ダメとなれば大好きなぬいぐるみに囲まれて死ぬのが最期の本望。
俺についてこいタイプの医者は苦手。共感はしろとは言わないが、とりあえず客観的なデータを見せ、恣意的な解釈を持ち出さないタイプの医者が好き。

こんな思想がバラバラな3人の日常は2021年4月ごろから壊れ始めるのでした…

2.2021年4月からの1年間

ここからは備忘録として、Twitterでは明かさなかった2021年4月からの1年間を振り返ります。

2021年4月〜5月:私は就活落ちまくり、両親はそれでもサークルなど職務に関係のない事柄のアピールは中学受験でやめなさい、スキルのことだけ話せと諭していた頃の話です。

この頃から母親が「とにかく食べられない、食べてもすぐに満腹感を感じる」と訴え始めました。父親が胃腸薬を片っ端から買って母親に飲ませるも、母親はさらに食べられなくなる一方。
私の内定が出た頃には、母親は「56歳じゃ60歳以上のお客様も頼めるタイプのお子様ランチ頼めないんだよねえ…」と言い始めるほどに食べられなくなっていました。(父も私もこの時点でどこでもいいから病院行けばよかったんだろうなと後悔しています。) 

2021年6月〜7月:ここで事態は動き出します。この頃、母親の持病のリウマチと甲状腺癌の診察のために母親のいつものかかりつけ医へ。私は、診察室の密を防ぐために待合室で持ってきた修論用文献は読まずに某ハンドメイド通販で購入したお人形着せ替え遊びをして待っていた時のこと。看護師さんが「ワセジョさんですか?お母様についてお話が…」とやってきました
診察室に入ると、母の主治医はまるで私の数学の偏差値でも見たかのような渋い顔で母の検査の数値を見ていました。そして、「単刀直入に申し上げますと、腹水が溜まっていて非常に芳しくない所見が見られます。今すぐお父様にご連絡願えますか。」と仰せになりました。

流石のド文系の私にも、予後はかなり悪く、半年から1年程度で亡くなるのが平均的なところということを意味しているということが分かりました。すぐに父に連絡し、それを聞いた父もやはり私と同じことを考えていたようで、お互いに「これはまずいことになった」と悟りました。
そしてここから、我々家族の約10ヶ月にわたる戦いが始まりました。

2021年7月〜8月:
まずはどんな治療をするにも確定をしたほうがいい、そう言われてがん研に紹介状をいただきました。そして、行くと「やはり腹膜播種で間違い無いでしょう。ただ、確定を出して治療なり緩和ケアなりする場合にはCT検査、大腸カメラ検査などが必要になります」とのことで、母親は「それなら苦痛や放射能を伴うため、検査はしたくないです」と返答。ここから家族の関係は悪化し始めました。父親は母親の余命が少ないことを確信しているのと、母親にどうにかして検査を受けさせようと必死だったため、父親自身のメンブレが始まりました。そのメンブレは昭和天皇陛下崩御前の自粛ムードを彷彿とさせるほどにまでなりました。何気ない日常はあっという間に教科書で見た戦時下のような生活に変わってしまいました。

そんな中、私は私で自分がこうなってしまった時のリサーチも含め、カプセル内視鏡検査ができる病院を両親に何個か紹介しました。しかし、どこも「検査前に大量の下剤を飲むことが必須」とのことで、すでに大量に水分を一気に飲むことすらキツくなっている母は検査ができないということでお断りされてしまいました。

2021年9月〜10月:再び母親のかかりつけ医へ。すると、主治医の先生から某医大附属に在籍されている、その道ではかなり著名な先生を紹介されました
そして、早速その先生の元へ訪れてみると、先生は物腰柔らかく母のお話を聞いてくださり、苦痛の少ない検査をご提案してくださいました。同時に、先生は「治療をするにせよ、緩和ケアを受けていくにせよ確定診断が必要である」ということをご説明されました。ここで、母は重い腰を上げてようやく検査を受ける決心をしました。
しかし、その結果は極めて残酷なものでした。
膵がん・腹膜がんという2つの原発性の癌が見つかり、どちらもステージ4であり、治療法はあるにはあるが、それをやっても5年生存率は10%台と宣告されました。ポジティブに捉えるなら、早稲田大学商学部に合格する人とほぼ同じぐらいの割合であるとも捉えられるでしょう。
しかし、先生が仰せになるように、やるにしても「治療の過程の中で感染症にかかってお亡くなりになる」リスクも伴うので、まさにトロッコ問題のように答えがないものでした。
その次の受診までの1週間、この件は家族で大論争になりました。私と母親は「やりたいようにやらせろ」、父親は「いや治療だ治療」で対立。この議論も答えがないだけに、家族全員のストレスは最高潮になり、家族の間にはまるで拒否権の発動を相次いで行使する米露のような壁ができ、完全に機能不全の国連のようになりました。そして、私の修論を書く手はこの辺りから止まり始めました。

議論が平行線のまま、次にまた受診し、母親がエコー検査をしてもらっている間に先生は我々親子に次のように仰せになりました。

「奥様にはああ言いましたが…正直、治療をされたところで生存値の中央値は国内の臨床結果によれば、治療をしても見つかった時点から1年半はないです。もちろん、ご主人(父親)の言い分もひとつの正解です。ですが、ご主人は果たして愛する奥様が後悔の念を残してお亡くなりになるのを見届ける勇気はありますか?

この一言で、父親は母親の意思を尊重する決意を固め、母親は先生に紹介状をいただき、最期を迎える病院へと転院することになりました。

2021年11月〜2022年2月第1週ぐらいまで:この期間は我々家族がまともに穏やかに過ごせた最期の時期になりました。ご紹介いただいた病院でお試し入院をし、うまい具合に合う緩和ケア用の薬が見つかりました。また、「俺についてこいタイプ」ではない、理解のある医者くんにも恵まれました。
薬によってある程度母親が食事を摂れるようになり、外出回数が増えたので、このまま「普通」の日常が何年も続くとも思われる時が流れました
その頃から、私は止まっていた修論の馬力を上げ、ieltsの勉強も始めました。この時の修論もさることながら、ieltsでも出願ギリギリみたいなお恥ずかしいスコアを取ったのを母親に見られ、母親から喝を入れられていました。私が修論とieltsスコアタに励む中、父親も父親で溜まっていた仕事をこなしていました。
さらに、私の修了記念も兼ねて、家族みんなで2/25から1週間北海道に温泉療養に行く計画が立ちました。久々に血眼になって家族みんなで航空券やホテル探しを行い、我が家は母親が病気になる前の日常をすっかり取り戻していました。


2022年2月第2週〜第4週:この辺りから母親の体調が急に悪化。お風呂やトイレですら家族の介助が必要、ほぼ丸1日寝たきり状態で、1日の中で口に入れるのはお子様ランチレベルの食事量と痛み止め、スポーツドリンクのみという状況に。このまま再入院か…そう思ってた2月24日21時ごろ、私がオンラインカテキョをしている中、家の中に見知らぬ人の声が響きわたりました。どうやら聞いていると、母親はついにどうにも痛みに耐えられなくなったようで、ついに救急搬送されるようだということが分かりました。それでも、父親から「ご時世がご時世という中で同伴は1人しかできないんだから、万が一仕事中に救急搬送案件になったとしてもお前は取り残されるしかない。したがって、最後までやりきるように。」と押されて私は家に愛猫たちと共に取り残されました。私はここから40分ほど、画面の向こうの生徒様に動揺を隠しながらなんとか笑顔で仕事を完遂しました。というか、母親が死にそうだなんてそんな重いことを生徒様、それも小学生の子に言えなくて、笑顔になるしかなかったのですが。

仕事後、当然翌日25日の夜発の飛行機で北海道に行く計画を全部キャンセルしました。そして、ワンチャンよろしくない電話が来るかもわからないと思い、25日午前中に控えていたITパスポートの受験も内定先に事情を話し(内定先から取得を推奨されていた)、諦めてオールすると決めました。

結局、ITパスポートについては夜明けごろに父親から電話で「会社に迷惑だから受けてこい」としつこく言われ、ほぼ完徹状態の頭空っぽ状態で受験しました。(結果的に合格はしたものの、試験中でも動揺が抑えられず、得意分野のマネジメント系でさえもお粗末なスコアでした。)

ITパスポート試験終了後、私は母親の病院に向かい、医師からの説明を父親と共に受けました。その時にいただいた治療計画の資料はまるでお涙頂戴ドラマで医師が余命宣告する時に使うような、かなり強いワードのオンパレードでした。そして、今後の治療方針欄には「このまま亡くなる可能性が高く、お看取りのご準備を強く推奨します」とだけ書かれていましたここから、我々親子の代わりばんこ徹夜、1ヶ月半にも及ぶ極度の緊張の日々が始まりました。

次回に続く

最後に、ここから先は有料エリアですが、母親が独身時代可愛がっていた猫の写真を載せておきます。(いただいたお金は香典・お花料として母の前にお供えさせていただきます)

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