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父が倒れた日のこと

父親と腹を割って話せないまま15年が経った。

決定的な決裂があった訳ではない。
15年前に父親が脳出血で倒れてしまったのだ。
当時、俺は中学3年生で、父親は42歳だった。

その日は冬のよく晴れた日だった。

授業を受けていた時、古文の先生が突然教室に入ってきて、俺の名前を読んだ。教室を出てから、わーっと矢継ぎ早に話をされた。咄嗟のことでよく事態が呑み込めなかった。普段は喋り方がゆっくりで、何を考えているのかよくわからない先生だったので、血相を変えて早口で喋る様子に、只事ではないことがわかった。

最低限、理解できたのは、父親が倒れたこと、搬送先の都内の病院に至急向かいなさい、とのことだけだった。

倒れたと言っても、何の病気で倒れたのかもわからなかったし、ベットの上で安静にしているくらいの話なのか、もっと重たい状態なのかは理解することができなかった。

だが、ゆっくり考えている暇はない。
急いで荷物をまとめて校舎を出る。

当時、俺はとある中高一貫校に通っていた。
校舎の横では高校入試の合格発表の掲示板が貼り出されていた。親子が合格を喜んでいる声が聞こえる。もしかして、4月から同級生になるのかもな、なんて思ったりした。

電車に乗り座席に座って、ガラケーを開くとメールが何通か入っていた。母親からと、父親の勤務先の会社の人からだった。文面から思ったよりも症状が重いことがわかった。朝は普通に送り出してくれたことを覚えているので、ほんの数時間で死に瀕するところまで来ていることにショックを受けた。一方で、あんまりピンときていない自分がいた。

病院に着いて母親と勤務先の人達と合流した。
そして、すぐ父親のいる場所に案内された。そこはICUで、横たわる父親がいた。メール書いてあった「危篤」という言葉が示す状況を鮮明かつ克明に理解するに至った。いくらなんでも突然過ぎないか、とここに来て急に取り返しのつかない気持ちに襲われた。

しばらくしてから、医師からの説明を受けた。
父の病気は脳出血である。出血部位は脳幹からで、これは脳疾患の中でも特に重い症状である。かなり高い確率でこのまま数日で亡くなるだろう。仮に生き残ったとしても、重い障害が残り、口から食事を摂ることも喋ることも難しい。医師の話ぶりから極めて絶望的な状況ということが理解できた。

医師の説明が終わった後、まだお昼ごはんを食べていないことに気がついた。アディダスのエナメルバッグのカバンの中に弁当がしまってあった。父親が作った弁当だった。我が家は父がいつも料理を作っていたのだ。

突然の事態にショックを受けた母は深くうなだれており、弁当を食べていいか聞くのも憚られたが、自分の様子を察したのか「弁当食べておいで」と言ってくれた。

すっかり冷えた弁当を咀嚼していく。父親が作ってくれた最後の食事だった。だが、色々ありすぎたせいなのか、自分の頭も完全にエラーを起こしていた。味がよくわからない。まるで砂を噛んでいるような感じがして、食べきれずに残してしまった。

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