反応を利用する教員は要らない

授業の始まりで、騒がしいこどもたちの中から
静かに待っている子どもを見つけて
「〇〇さん、姿勢を正して静かに待てて偉いですね」
先ほどまで騒がしくしていた子どもたちは、褒められた子どもの行動をマネして、姿勢を正して静かになる。
小学校では良く見かける場面である。

教室ではこのようなことが、あらゆる場面で行われている。

朝は元気よく挨拶した子を褒め、
廊下に並ぶ時は、はやく並んだ子を褒め、
休み時間には次の授業の準備をしてる子を褒め、
授業ではよく手を挙げる子を褒め、
ノートを綺麗に書く子を褒める。

子どもたちは、誰かが褒められる度にその行動をマネする。

しかし、その行動には思考はない。
ただ反応しているだけだ。

なぜその行動が賞賛に値するのか、
その行動はどのような気持ちが源なのか、
その行動によって相手はどう感じるのか、

そんなことは全く関係なく
ただその行動をマネるだけで賞賛が得られる。

このような経験を積み重ねていくと、
子どもは自分の行動について思考せず、
褒められている人の行動をただマネするだけになる。
だから、行動の真意を理解することもできず、相手の気持ちにも鈍感になるのだ。

行動の真意について考えない者は、自分の行動に自信が持てない。
誰かに正しいと行ってもらえなければ何も出来ない人間のできあがりである。
相手の気持ちに鈍感な人間は希薄な人間関係しかつくることができない。

こう考えると、最近はこのような人間ばかりなように感じる。

教員らが安易に、このような反応の特性を利用して子どもたちをコントロールしてきた結果、
人間にとって大切な思考を奪い、人の気持ちを思いやる心を退化させてしまったのではないだろうか。

その要因を作ってきた教員たちは、そんな自覚があるはずもなく、教育現場に入ってきた若者を「Z世代」などと皮肉を言っている。

このような教員らは反省すべきだ。
そして、今すぐこの「反応」を利用したコントロールをやめるべきである。

計算による称賛によって子どもをコントロールすることを指導力とは言わない。
それは、どちらかと言えば動物の調教に近いだろう。

怒られたら静かになるのは、ただの反応だ。
なぜ怒られたのか、なぜ怒っているのかを考えららる子どもにしなけらばならない。
だから、反応を見て満足するのではなく、
さらに働きかけて思考させなければならないのだ。

子どもをいかに思考させられるかが真の指導力であるのだから。

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