みんなで公立小学校教員になろう!(みん教)

30代脱サラして東京都公立小学校教員に。 民間出身の私にとって学校の仕事、公務員の仕事…

みんなで公立小学校教員になろう!(みん教)

30代脱サラして東京都公立小学校教員に。 民間出身の私にとって学校の仕事、公務員の仕事は謎だらけ。教員のなり手不足も納得だ。 一人でも多くの方に、教員の道に進んでもらいたい一心で発信します。

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ノートをチェックする教員は要らない

学校では子どもたちが授業で使用したノートを、授業後にチェックすることがある。 これは特に珍しいことではない。 むしろ、ほとんどの教員が当たり前のようにやっていることだろう。 教員は子どもたちのノートを確認して、しっかり授業に取り組んでいるか、ノートの書き方はどうか、授業中に何を考えたかなどを見とり、その子の評価に反映させる。 もちろん、授業中の子どもたちの思考を見とるのは、とても重要であるし、文章の書き方や漢字の使い方などの技能的な部分も評価することは可能だろう。 しか

    • 空気が読めない教員は要らない

      日本の社会人スキルとして「空気を読む」という能力は非常に大切である。 グローバル社会における、空気を読む日本人の是非についてはともかく、日本で生活する上で空気を読む力は必須であろう。 教員には学級経営をする上で、この「空気を読む」という力が絶対的に必要である。 では、空気が読める人間とはどのような人間か。 相手目線で物事を考えることができ、その場の状況や人の表情をよく観察して的確な発言や行動をすることができる者のことだ。 その場の状況を理解するというのは、その場を構

      • 学習指導要領や教科書を疑わない教員は要らない

        リーダーの一番の仕事は決断する事である。 誰が言った言葉か忘れてしまったが、今週私の耳に残った言葉だ。 仮に教員を学級のリーダーとするならば、教員は子どもたちに日々何を伝えるか、何を考えさせるか、どんな力をつけさせるか、決断しなければならない。 しかし、現代の教員は学習に関するこれらの決断の多くを他に委ねている。 と言うよりも、公教育の仕組みがこれらの決断を教員から奪っていると言った方が正しいかもしれない。 教員からその決断を奪う根拠となるのが学習指導要領である。 学

        • 人に任せられない教員は要らない

          教師の働き方が社会問題となって久しい昨今、未だに毎日長時間の残業を余儀なくされている教員ばかりだ。 学校で働く教員の中には自分の仕事を人に頼んだり任せたりすることが苦手な者が多いというのも、状況が好転しない原因の一つである。 さらに問題なのは、なぜ人に頼んだり任せたりすることが苦手なのか、その真の理由を本人もよく分かっていないということだ。 近年、各学校に配置されるようになったスクールサポートスタッフのおかげで、ワークシートの印刷やテストの丸つけ、児童の作品の掲示、児童

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        ノートをチェックする教員は要らない

          やりがいも待遇も求める教員は要らない

          「教員はやりがいのある仕事です。」 採用一年目の初任者研修で、様々な講師からこのセリフを聞かされた。 その後も本やメディアの特集などで教員の仕事のやりがいについて語られているのを目にする。 やりがいとは、『仕事をすることで精神的に満たされる理由がある状態』ということだ。 例えば、業務を通じてスキルアップができるとか、 達成すべき目標があり、達せられたかどうかを確認することが容易あるとか、 上司や仲間と信頼し合える関係があるとか、 簡単には解決できない課題に取り組むなど、

          やりがいも待遇も求める教員は要らない

          返事がないことを見逃す教員は要らない

          学校の中で子どもたちは、教員から様々な注意や指導を受ける。 廊下を走っていれば『歩きなさい』 授業中おしゃべりをしていたら『ちゃんと聞きなさい』 ぼーっとしてれば『集中しなさい』 危険なふざけ合いをしてれば『やめなさい』 という具合に、不適切な行動に対して注意や指導を受ける。 普通の感覚をもった教員であれば、このような注意や指導を1日に何十回とするだろう。 ただし注意や指導が、その行動を正すことに終始してしまって、もっと大事なことがおろそかになっている場面を多く目にする

          返事がないことを見逃す教員は要らない

          競う相手を理解していない教員は要らない

          AIの発達により、人間の仕事がAIに奪われる未来が、より現実的なものとなった昨今、 ChatGPTをはじめとする生成AIの飛躍的な進化から一瞬たりとも目が離せないような状況が続いている。 そして、ありとあらゆる業種でしのぎを削り合うこの資本主義社会において、教育もその例外ではない。 公教育は国営であるがゆえに常に守られてきたが、それでも教員には競合が存在する。 少し前までそれは学習塾やインターナショナルスクールであった。 そして最近では、フリースクールやオルタナティブ

          競う相手を理解していない教員は要らない

          『人間関係』を教えない教員は要らない

          学校では子ども同士の人間関係によるトラブルが起きる。 罵られた、からかわれたなどの小さなトラブルから、最終的に不登校や転校する事態にまで発展するような大きなトラブルまで大小は様々であるが、基本的に人間関係がトラブルの主たる原因であることについては同じである。 しかし、人間関係がトラブルの原因であるにもかかわらず、教員たちは『人間関係とはなにか』については教えない。 教えられないという方が正確だろうか。 しかし、人間関係についてこそ教えるべきだろう。 なぜなら、人間関係が

          『人間関係』を教えない教員は要らない

          九九を記憶させる教員は要らない

          日本の学習指導要領では小学校2年生の算数で、かけ算を習うことになっている。 『1桁の整数×1桁の整数』がその始まりであり、その81通りを全て暗記する『九九』なるものを活用してかけ算を身につけさせることが、日本の小学校では昔から定番であり、今も尚その指導法が受け継がれている。 しかし、かけ算を理解することと、九九を暗記することは意味が全く違う。 昔の教員がどうであったかは知らないが、今の教員はこの違いがわかっておらず、『かけ算を理解すること=九九を全て暗記すること』になってし

          過度なスキンシップを放置する教員は要らない

          子どもはスキンシップが多い。 友達同士で肩を組んで歩いたり、 手を繋いで歩いたり。 後ろから抱きついたり、腕を組んだり。 一つのイスに2人で座って同じ本を読んだり。 このようなことは小学校であれば日常的な光景であろう。 中には、ふざけて叩き合ったり、蹴りあったり、床に寝転がって取っ組みあったりしながら、キャッキャしている子どももいる。 そして、このような過度なスキンシップが日常化している子どもが、学級内でトラブルを起こしていることが多い。 これには理由がある。 そ

          過度なスキンシップを放置する教員は要らない

          漢字を丁寧に教える教員は要らない

          義務教育において、読み書きの学習というものは、ずっとついてまわるものだ。 小学校では、入学式の翌日からひらがなの学習がはじまり、そしてカタカナ、漢字と移行する。そこからほぼ毎日のように新しい漢字を学習し続けていく。 これが、日本の高い識字率を維持することの一助となっていることは間違いないと思うが、それと引き換えにとても大切なものを失わせている。 それは、主体性や当事者性と言われるものだ。 子どもたちがどのように漢字を学習するのかといえば、 まず漢字ドリルで新出漢字を

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          愛され方ばかり教える教員は要らない

          『子どもを褒めて教育することで、自己肯定感を高めることができる』 私は、この考え方が嫌いだ。 この考え方が間違っていると言いたいのではない。 自己肯定感を高めることを目標としていることが間違いであると考えている。 では、なぜ自己肯定感を高めるのか? こういったことを教員一人ひとりが真剣に考えられているだろうか。 理由もよく考えずにトレンドに流されてる風見鶏のような教員が多過ぎる。 アクティブラーニング インクルーシブ•ダイバーシティ教育 キャリア教育 個別最適な学び

          愛され方ばかり教える教員は要らない

          教員のやりたい仕事は要らない

          教員の仕事に対する様々な不満の中で『事務作業や校務分掌の負担が大きくてやりたい仕事ができない』という声をよく聞く。 しかし私は、『やりたい仕事』とはなんだろうか?と思ってしまう。 詳しく話を聞いてみると、『やりたい仕事』というのは授業準備に関する仕事であることがほとんどであった。 しかし、その状況でも教員たちは毎日授業を行っていて、学校にとっても子どもたちにとっても大きな問題とはなっていない。 このことから、教員らの言う『やりたい仕事』のほとんどは、組織や子どもたちに

          トラブルを解決しようとする教員は要らない

          子ども同士のトラブルが起きた場合、多くの教員は、そのトラブルを解決しようとする。 それは、教員として、大人として、自分が解決しなければならないと考えているからだろう。 子どもたちの間に入って出来事を整理し、お互いの言い分を聞いて、解決の方向性を決めるのだが、その際、ほとんどの教員は最終的に相互の感情に注目させる。 自分がしたことで相手がどんな気持ちになったかを考えさせるのだ。 『嫌な思いをした』 『悲しい気持ちになった』 『ムカついた』 明らかに悪いのが一方的な場合で

          トラブルを解決しようとする教員は要らない

          パワハラ文化から脱却できない教員は要らない

          その昔、教員という職業は人気職であり、どの自治体でも、定員の何十倍もの志願者がいて、非常に狭き門であった。 これだけ教員がブラックだと騒がれている昨今ですら、学生の将来なりたい職業ランキングの10位以内に入るのは、子どもたちにとって身近で、働く姿をイメージしやすいからだろう。 それだけ人気の職業であれば、実際に現場で使ってみて、少しでも違和感があれば、代わりの教員はいくらでもいたでだろう。 このような湯水のように湧いてくるほどの志願者の数のおかげで、教員の世界には根強いパ

          パワハラ文化から脱却できない教員は要らない

          記憶中心の学習をさせる教員は要らない

          人間は、文明の発展の中で人がもつ機能を外部化することでその力を増幅させ、加速度的な進化を可能としてきた。 例えば、「移動する」ということについて人間には「歩く」という機能があるが、これを外部化させたものが自転車や車、飛行機であり、人間が移動できる距離は歩くしかなかった時代に比べて飛躍的にのびたと言える。 情報技術が加速度的に進化している昨今では、人間の『記憶する』機能が外部化された。 今まで人間の脳に記憶してきた知識のほとんどは、今やWebで検索すれば瞬時に確認ができる。

          記憶中心の学習をさせる教員は要らない