記憶中心の学習をさせる教員は要らない


人間は、文明の発展の中で人がもつ機能を外部化することでその力を増幅させ、加速度的な進化を可能としてきた。

例えば、「移動する」ということについて人間には「歩く」という機能があるが、これを外部化させたものが自転車や車、飛行機であり、人間が移動できる距離は歩くしかなかった時代に比べて飛躍的にのびたと言える。

情報技術が加速度的に進化している昨今では、人間の『記憶する』機能が外部化された。
今まで人間の脳に記憶してきた知識のほとんどは、今やWebで検索すれば瞬時に確認ができる。

現代においては何か分からないことがあればスマートフォンで瞬時に情報にアクセスして確認することがてきるようになった。

このように記憶が外部化されたことによって、知識を人間の脳に記憶することの意味が変化したのである。

しかし、この変化に気付かない多くの教育関係者は、未だ子どもたちに記憶中心の学習を強いている。

もちろん子どもたちが学習することの中には記憶した方が良いこともたくさんある。

漢字はある程度知識がないと、文章を効率良く読むことができない。
簡単な計算の仕方も、記憶しておかないと生活レベルで活用することは難しい。

しかし、漢字の筆順や、とめ•はね•はらいや、
歴史の人名、事件名や年号などの暗記科目全般の知識はどうだろう。

多くの時間を割いて覚える必要はあるだろうか?そして、それらを記憶しているかどうかを評価するコストをかけるだけの価値があるだろうか?

もっと大切なのは、覚えることのメリットや記憶のメカニズムを理解し、覚えるべきことと不要なこととを取捨選択できることではないだろうか。

それを子どもたち自身が思考錯誤することで子どもたちの学びに主体性が生まれるはすである。

要するに、移動が外部化されたことで、歩くこと走ることが特別な意味を持つようになったように、記憶が外部化されたことで、『記憶する』ということがより特別な意味を持つようになったということだ。

現代において、記憶重視の学習をさせることは、東京-大阪間を少しでも速く移動する目的で毎日毎日走力を高めるトレーニングをさせるようなものだ。
移動速度を上げるなら、車の免許をとるか新幹線に乗ることを教えるはすであり、速く走れる方法を教える者はいないはずだ。

これからは、どの知識を記憶して、どの知識は外部化するかを、教員は子どもとともに考えながら学習を進めなければならない。

そうすることで、記憶することの良さを感じながら学習に取り組むことができるはずである。

そして、生成AIの台頭により、次は『思考』が外部化され、考えることの意味も同じように変化していく。

日本の教育がこの変化についていけないとなると、いよいよ危険信号である。

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