返事がないことを見逃す教員は要らない
学校の中で子どもたちは、教員から様々な注意や指導を受ける。
廊下を走っていれば『歩きなさい』
授業中おしゃべりをしていたら『ちゃんと聞きなさい』
ぼーっとしてれば『集中しなさい』
危険なふざけ合いをしてれば『やめなさい』
という具合に、不適切な行動に対して注意や指導を受ける。
普通の感覚をもった教員であれば、このような注意や指導を1日に何十回とするだろう。
ただし注意や指導が、その行動を正すことに終始してしまって、もっと大事なことがおろそかになっている場面を多く目にする。
それが『返事』である。
多くの教員は、その場で子どもの行動を制することができれば、注意に対して子どもの返事がないことまで注意する者は少ない。
走っていた子どもは、黙って歩き
おしゃべりいた子どもは、おしゃべりをやめ前を向く
ぼーっとしていた子どもは、黙って鉛筆を持ってノートに向かい
ふざけ合っていた子どもたちは、動きを止めて、どこかへと去っていく
このような指導は、子どもをコントロールしたいだけの教員の自己満足のための指導である。
行動を制御することに成功して、わずかに胸がスーっとして、それで終わりだ。
だから、子どもの返事がないことには何とも思わないのだ。
もし子どものことを考えての指導なのであれば、返事がないことを見逃すはずはない。
なぜなら、相手のアクションに対して返事をしないでいるということは、相手意識の極めて低い者の行動であり、決して許すべき行動ではない。
そのような者は、人の話を聞くときも相手を見ず、平気であくびをしたり、大きな声でおしゃべりをするようになる。
そして。自分のまちがいに気づいても、謝ることのできない人間になってしまう。
自分の間違いを認めることができない人間になってしまうのだ。
だから、返事がない子どもを絶対に見逃してはならないのだ。
どんなに時間がなくとも、教員の注意に対して返事がなければ、絶対に指摘すべきなのだ。
『注意されたら返事をしなさい』と。
『間違えてしまったと思ったら必ず誤りなさい』と。
このやりとりがなければ、
子どもはその場だけ行動を変化させれば良いと判断するようになってしまう。
そして、喉元を過ぎてしまえば注意されたことなど忘れてしまう。
それは、自分の行動を悔い改めた事を表明しないからだ。
注意に対して返事をすることや謝罪をすることは、対外的に自分の行動の誤りを認めたということの表明なのだ。
それを表明することは、その行動を悔いて未来に向けて改めるということの表明なのである。
教員は、子どもの変化を感じたいが余り、表面的な変化を受け入れてしまう。
真なる変化、真なる成長は、そんな易いものではない。
廊下を歩かせることが目的なのか、それとも廊下を走ってしまったことの危険性を理解させ、悔い改めさせることが目的なのか、
注意や指導の目的を今一度確認していただきたい。