トラブルを解決しようとする教員は要らない

子ども同士のトラブルが起きた場合、多くの教員は、そのトラブルを解決しようとする。
それは、教員として、大人として、自分が解決しなければならないと考えているからだろう。

子どもたちの間に入って出来事を整理し、お互いの言い分を聞いて、解決の方向性を決めるのだが、その際、ほとんどの教員は最終的に相互の感情に注目させる。

自分がしたことで相手がどんな気持ちになったかを考えさせるのだ。

『嫌な思いをした』
『悲しい気持ちになった』
『ムカついた』

明らかに悪いのが一方的な場合であれば、これで謝らせて終わりでも良いかもしれない。
しかし、教員が仲裁しなければならないようなトラブルに発展する事案は、互いに嫌な思いをしていて、感情がおさまらない状況であることがほとんどである。

互いの感情に注目させ、お互いに嫌な思いしたことを理解させた上で、互いに謝罪させて落着させた経験がある教員がほとんどであろう。

しかし、こんな解決で本当に良いのだろうか?

実社会におけるトラブルは感情に注目して解決するだろうか?

そうではない、
世の中で起きている問題は利害を整理することで解決しているのだ。
むしろ感情はトラブルの解決の邪魔になることがほとんどである。


だから子どもたちにも、利害を考えさせなければならないのだ。

そして、感情を優先するよりも、『争いがなくなること』や『毎日を平和に過ごせる』という互いのメリットを確認して、合意させなければならないのである。

互いの利害を確認し合意できる、子どもたちは自然と感情をコントロールが身についている。
最終的には、子どもたちが未然にトラブルを回避したり、トラブルが起こってしまった際に自分達で、解決できるようになっていく。

これが、より良い解決への導きではないだろうか?

そもそも、教員は子ども同士のトラブルに首を突っ込み過ぎだ。
解決そのものよりも、子どもたちに解決する力をつけさせることの方がより大切ではないだろうか。

トラブルの中でどんな気持ちになったかを考えるのも良いが、
トラブルになったことで失ったものは何か?
このままトラブルを長引かせて何か得るものがあるのか?
トラブルがあるのとないのとでどちらが自分にとって得か?

冷静に考えれば、最終的な答えはみんな同じだ。
『トラブルは嫌だ』である。

ここにたどり着かせなければ、トラブルは無くならない。
ましてや、トラブルをおこせば先生が解決してくれる、先生がなんとかしてると思ってしまうだろう。

子どもにいいように使われる残念な先生には出会いたくないものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?