気持ちと行動を切り分けない教員は要らない
日本人は心を大切にする。
おもてなしの精神の根幹にも繋がる日本の大切な文化と言えよう。
だから、日本人は「行動には心が伴っていなければならない」と考える者が多い。
教育の現場においても、ほとんどの教員は、子どもたちに『行動に気持ちをこめること』を教えているだろう。
挨拶や感謝の言葉、謝罪する場面
授業を受けるときの態度、掃除の仕方、
教員らは、ありとあらゆる場面において、子どもたちの行動に心が伴っているかを確認している。
もしそれが伴わなければ、
「どんな気持ちで〇〇すればいいかな?」
と、気持ちを問うのではないだろうか?
しかし現実は、行動に気持ちがこもっているかは関係ない。
関係ないというか、真に確認する術がない。
教員が子どもを見て行動に心が伴っていないと判断するのも、『心がこもっているように見えない』だけだ。
真に他人の心がわかる者などいないのだから。
逆を言えば、気持ちだけあっても何も伝わりはしない。
気持ちよりも行動することが大事である。
だから、心が伴ってなくてもいいから、まず行動させるべきなのだ。
どうしたら、心がこもっていると感じさせられるかを教えなければならないのである。
所作を教え、言葉使いを教え、声の出し方を教える。
最も重要なのは、行動に心が伴っているように見えるかどうかだ。
多くの教員は、心にとらわれてしまって、行動に対する指導がブレてしまっているように感じる。
「この子なりに、心をこめている」などと勝手に納得して中途半端な指導をしてしまっている。
おそらく、このように外形だけを整えさせることに抵抗がある者も少なくないだろうが、
「心は形をもとめ、形は心をすすめる」という言葉にあるように、
外形をきちんとつくることで、心は整い充実し、成長するのである。
教員は『気持ち』と『行動』を切り分けて指導しなればならない。
気持ちなど後回しでいい!と言い切ってしまっても良いぐらいだと考えることすらある。
正しい行動の形をブレずに指導できるかは、これからの教員にとって極めて重要な資質であろう。
子どもたちが将来、本当に心を伝えたいと思ったときに、正しい行動が選択できるように、
そして、自分の心を表現するより良い術を見出せるようにしてあげることが教員の責務である。
「「頑張ったね」と言われたら、
「日頃の先生の指導のおかげです」と言うと良いですよ。」
これは半分冗談だが、このような指導の方向性も考えてみる価値はあるのではないだろうか。