許容する教員は要らない

子どもはみんな優しい先生が好きだ。
厳しくて怖い先生は基本的に嫌がられるだろう。
会社などの組織における管理職やリーダーについても同じことが言える。

では、優しい先生とはどんな先生だろう。
私が考えるに、『子どもの間違いや予想外の行動を許容し、笑顔で受け止めてくれる先生』といった感じであろう。

許容するとは、本来許されないことを大目に見るということだ。
だから、許容の範囲が広いほど、子どもたちにとっては『優しい』ということになる。

現在、大人は子どもを許容すべきであるという風潮が強い。

子どもは厳しく育てると自己肯定感が低くなるとか、厳しくし過ぎると虐待問題になるだとか、親も子どものしつけに二の足を踏んでしまう時代だ。

つまり、今の子どもは許容されるのが当たり前であり、何をしても周囲の大人に受け入れてもらえるのが当たり前、優しくしてもらえるのが当たり前になってしまっている。

子どもにとって周囲の大人から優しくされることは、地球に空気があって呼吸できることと同じように当たり前なのだ。

そして、許容されるのが当たり前の人間は、人に対して許容することはない。

だから子どもたちは、学校などで集団生活を始めると、すぐさま衝突し合う、
それは、今まで許容されてた自分の行動が、周りの子どもは許容してくれないからだ。

危険なのは、子ども自身がその訳を理解できないことだ。

それは、子どもたちがなぜ自分が呼吸できているのかがわからないのと同じだ。
空気や酸素の存在、肺が機能する事は子どもたちにとって当たり前であり、とりあえず生きていく上でその仕組みを理解する必要ないからだ。

今や小学校の教員も、なんやかんやと理由をつけて子どもを許容する時代だ。
保護者の教育方針もまるっと許容して、あとは自分の目の前が通り過ぎていくのを我慢するだけの者もいるくらいだ。

今の子どもたちは相手を許容する範囲が極めて狭い。相手を許容することが難しいというのは集団生活では致命的だし、友達や仲間を作るなどもってのほかだろう。

これだけ許容されてきた子どもたちの自己肯定感が低い原因はこれだ。
許容することの良さ難しさを知らないから、許容されることの喜びやありがたさがわからないのだ。

子どもたちを許容するのであれば、許容されたことを実感させなければ意味がない。
許容されたことに喜びを感じさせなければ意味がないのである。
許容されること実感することで自己肯定感はあがり、人間関係はより堅固となり、相手へのリスペクトや優しさにつながるのだから。

ただなんでもかんでも子どもを許容することは『優しさ』ではない。ただの『放置』だ。

私たちも厳しい社会の中で必死で生活しているからこそ、友人や家族からは許容してもらえることで自己の存在を認められるのだ。だから相手や他人にもそれができるようになるはずなのだから。

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