主体的な教員は要らない
平成29年から現行の学習指導要領が施行され
アクティブラーニングという言葉が教育界のトレンドとなった。
アクティブラーニングとは
「主体的で、対話的な、深い学び」のことだそうだ。
まず、教員らは今までの教育を「詰め込み型」として
アクティブラーニングの対岸に置き、徹底的に否定した。
次に、現場では「対話的な学び」という言葉が流行したおかげで
授業中にやたらと話合いの時間が増えた。
何かにつけて、隣の席の人と話し合え、班で話し合えと。
しばらくして、無意味に話し合わせることが無駄だと気付く者や
誰とも話し合わず、1人で考える子どもは「自分自身と対話している」などと拡大解釈する者が現れ、「対話的な学び」が一人歩きした結果、多様化し、廃れた。
すると今度は「深い学びとは何か」という議論が流行する。
学習したことを活用させたり、子ども自身が問題を発見できるようにするなど
あの手この手と試みたが、
最終的には、他人の学びの”深さ“を見取ることが極めて困難であることに
多くの教員が気付いたことで、「深い学び」も廃れた。
今の学校現場でアクティブラーニングは過去のものとなり、
教員らは改めて「主体的」について考えることとなった。
何を隠そう、アクティブラーニングを実現するために
主体的になったのは教員達だけだった。
教員は、主体的に子ども達に話し合いの場を設定し、
主体的に様々な手段で学びを深めさせようとしてきたが
子どもたちが主体的になったという客観的なデータはどこにもない。
子どもたちは、いつの時代も、このような主体的な教員の被害者だ。
教員が子どもたちに何かをさせようとすることが
子どもたちを「主体的」から遠ざけているこには気付いていない。
このアクティブラーニングに関する一連の出来事を
「アクティブラーニング事変」として、
日本の教育史に深く刻み込むべきである。
そして、教員一人ひとりが、主体的になることの
ネガティブな要素にしっかり向き合うべきだ。
善意から行われる行為が、必ずしも子どもたちのためになる訳ではない
ということを、理解すべきである。
「斜めから見過ぎだ」との批判もあると思うが
百歩譲っても一理あるはずだ。
ほんの少しでもいい、今から子どもたちに働きかけることは
本当に必要なことか?本当に子どもたちのためか?
自分の満足や自己実現のためではないか?考えて欲しい。
「じゃあ何もしなければいいのか」という意見もあると思うが
教員の働き方が改善されないことを考えれば
無駄なことはしない方がいいという側面もあるはずだ。
現在、教員らは「GIGAスクール構想」に主体的に取り組んでいる。
今回もまた「事変」とならないことを切に祈る。