見出し画像

薬指の緊箍児

なんかちょっとナーバスになっているらしい、今の私。

三月のどこかの日曜日に来るはずのガスの点検がまだ来ないとか(事前に連絡をくれる様な会社では無い…)、そういう些細なことで神経がやられるタチだし、女性のからだあるあるな時期だったり、雨も降るわ地震も起きるわで、そりゃあナーバスにもなるわ、と、どこか客観視できている自分もいる。

まあ、以前の職場にも「三月はなんだか憂鬱になる」と仰っていた先輩がいたので、そもそもそういう時期なのだと割り切っていれば、だいぶ違うのだ。理由のわからない鬱じゃあ無い。幽霊の正体見たり枯れ尾花?ちょっと違うか。

そんな中、ふと考えた。

—もしも家族がいなかったら、私はもっと投げやりに、自暴自棄になりながら、こんな時期を過ごしているのだろうか。

左手の薬指に嵌まっている、かすう工房のシルバーのリングを眺める。

他のご家庭に比べれば、驚かれるほど安い結婚指輪だろう。とはいえ結婚当初の私たちにはそれが精いっぱいだったし、今とて特にそれで不便していない。

この銀色の指輪が、私をそれとなく世間的に「まとも」な形にとりとめているのかも知れない—そんな風に考えると、私はまるで孫悟空、緊箍児(きんこじ)を嵌められている様だな、とおかしくなる。

あまり多くを語るつもりは無いが、若い頃の私というのはどこか隙の多い存在だったのか、あわよくば、という目で見てくる男性に遭遇することもしばしばだった。

そしてそういう男性に限って、彼女がいるとか奥さんがいる人ばかりだった。

「危ないよ」と言われて、道路の上、向こうから走ってくる車やぶつかりそうな人からひょいと私を除けさせてくれるその手が、一見とても自然な形で私の腰に触れたりした途端、大概私は「ああ、」と察した。この人はこうして容易く女の子を触れる。そういう人というのは、もっと踏み込んだ形で女の子に触ることに、すっかり慣れている人なのだ。

自分自身が愛人の子、いわゆる私生児であるからこそ、私は自分の存在と、特定の相手がおれど他の味も知りたいという欲の上に成り立つ人たちの存在に、悩んだ。悩んだというか、そういったグレーゾーン的な部分がこの世にはあるのだという事実を、いかに受け入れていくかに悩んできた気がする。

うちの夫なんかは本当にいい例だけれど、世の中の大半の人の倫理観はしっかりとしていて、この国ではまずこの先百年間は一夫多妻制なんて採用されないだろうなと、そんな風に思わされる。

私も—頭では理解しているのだけれど、どうしても「じゃあ私という存在は『罪』なのか?」と考えてしまうと、その潔癖な倫理観に負けてしまいそうになるのだ。自分が倫理に反したいとかそういうんでなく、そういう人たちの存在も容認せねば、私は私を罪だと認識せねばならなくなる。そういった意味での「負け」—うまく言葉にできただろうか、うーん。

自分なんてどうでもいい存在だと、長らく長らく思ってきた。けれども臆病だった私の左手首からちょっと下とかには、今でもうっすらと白っぽい横線が走っているのがわかる。もっと強く刃物を引いていれば、きっと赤茶色の傷跡が遺っていたことだろう。

その行為はもしかすると、ずっと自分の中にあった『罪』の感覚による支配からの行いでもあったのかも知れない。父を大好きだったのに、父とは一緒に暮らせなかった。その理由をわかってしまってからは、私は、自分を罪だと決めつけて生きて来てしまったのかも知れない。

あの頃、あわよくば私に喰らいつこうとして、その欲情を私に見抜かれていた人たちは、どうして世間一般の倫理観を無視しようとしていたのだろう。

彼らは、罪を犯すことが、自分が罪人になることが、怖くなかったのだろうか?

彼らの指に時々嵌められていた緊箍児は、ぎりぎりと彼らの心を締め付けはしなかったのだろうか…?

けれどもそうして緊箍児の存在に怯えなかった両親によって私が拵えられた事実がある以上、私には、その灰色の箇所を理解する必要があるのだ。

この世には、白と黒でだけで語れないことがうんとある。

そう思えば—『罪』というものだって時に、ひどく曖昧な定義なのかも知れない。

もう、市販薬をめいっぱい飲んでしまって幻覚を見たりすることも無くなった。私は町内会の役員もやった、〇〇家(うちの苗字ね)の奥さんなのだ。ご近所にバレてしまったらまずいことなんて、到底できない。仕事だって休めない、代わりにやってくれる人のいない業種なのだ。

そうして、まあ品行方正にはほど遠いというか、そもそもバンドやってる様な奥様なのだけれど、私生活の上ではとでも言えばいいのだろうか、とにかく表面上だけでも「普通の生活」を営んでいる風でなければ、それこそ新宿とかそういう場所のでかいマンションにでも住んでいない限り、不審に思われること間違いない。

それでも時々、私はふっと、遠い空に想いを馳せる。

そうして「猫を置いてはいけない」と思い返し、また「普通の奥様」を装うことに専念するのだ。

皆、私が思うよりももっともっと、まるで一家に一台、ほぼ一人にひとつの勢いで、底なしの闇を抱えているのかも知れない。健全に生きている人なんて、あくまで健全であるフリに徹しているだけだったりして。

そうしてその深い闇に時々飲まれそうになって、緊箍児の締め付けすら薄れてしまうくらいに何かを求めてしまって、その対象が時に肉欲だったりするのだろうか。

それでも薬指に嵌められた輪を見つめればきっと、自らの立場がどんなものであるかを思い出すことができるに違いない。

結婚は、さまよえる魂に紐を付けて、匣へと戻してくれる良いシステムだ。

私の様に、他に帰る場所の無い人間には、そうして縛り付けておくシステムが必要なのだ。

きっと、この薬指の緊箍児を外してしまったなら、同時にタガも外れてしまう人も多いことだろう。

子どもの頃から、恋人に貰う指輪に憧れていた。その理由が、やっとわかった気がする。




頂いたサポートはしばらくの間、 能登半島での震災支援に募金したいと思っております。 寄付のご報告は記事にしますので、ご確認いただけましたら幸いです。 そしてもしよろしければ、私の作っている音楽にも触れていただけると幸甚です。