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灰色の瞳
たとえ届かないと解っていても、棄ててしまえない想いがある。
私はそれを、都会の片隅でいつまでも引き摺って過ごしている。
新宿のライブハウスの楽屋は薄汚く、そういう雰囲気すらを皆が愛していた。声が売り物のボーカリストが居たって、皆が平気で煙草を吸った。私がそういう狭いハコに出なくなってからは、全館禁煙のところも増えた様だったから、今頃はあすこももう、煙草を吸えない楽屋になっているのかも知れない。
あの頃私は、自分でも「NANA」の世界の登場人物みたいだなと、そう思っていた。ヴィヴィアンばかり着ていた訳じゃあないけれど、オーブのアクセの一つや二つは持っていたし、出待ちのファンもいたし、女の子の熱烈なファンにも恵まれていた。他のメンバーが男しかいないバンドで、だから私はその内の誰かの女であるとも噂されていたけれど、それはまったくもって事実では無かった。
京王線に乗って調布で降りて、速足で二人のアパートまで帰る。ライブですっかり汗臭くなった体をしたまま私は、出迎えたあなたに抱き着く。ロッキンホースは買えないし、あんな高いヒールの靴で歩く自信も無い。だからマーチンの履き古したブーツで私は、いつも帰路を急いだのだ。あのおんぼろなアパートで待っててくれている、あなたの元に一刻も早く辿り着く為に。
あなたはたった一台のノートパソコンで仕事をしていた。あなたの頭の中には無限に物語が詰まっていて、あなたはその中から気に入ったものを引っ張り出し、キーボードで打ち込んでいた。
あなたの書いた物語は、調布のパルコの本屋にも売っていた。それでも調布市民は誰も、あなたの存在に気づいていないらしかった。あなたがふらりと買い物に出てもけして、誰かに話しかけられることも無い。面倒だからサイン会なんかも断っているとあなたは言った。男か女かすら判別しがたい名前も、そんな生活に一役買っていた。
ある時私の音楽を聴いて、ライブに足を運んでくれて、私が立っていた物販に来て音源を買ってくれて、SNSもフォローしてくれた。勿論あなたは本業を匂わすことのない鍵垢で、そういうあなたの秘密を私は、いつしかどうしても知りたくなってしまっていた。
「ライブの後、23時に、駅の裏のローソンの前で待っていて」
SNSのメールでそんな短いメッセージを送って、私はその夜、あなたと結ばれた。
新宿のラブホ街の、誰も気づかなそうな隠れた一軒で、私はあなたのことを知った。あなたの本のことは、高校時代にとっくに知っていた存在だった。「え、マジ?」と訊いた私に、あなたは「そうだよ、食いつないでいるだけの売れない作家、それが俺」と、自嘲気味に言った。
私の調布のアパートは、古さに目を瞑った分、部屋はワンルームでは無かった。お風呂もトイレと別れている。私はあなたをそこへ呼んだ。あなたはノートパソコンと少しの服だけを持って、調布へ引っ越してきた。料理は私よりよっぽど上手く、洗濯をさせれば多少のシミはちゃんと落としてしまった。窓はいつも曇ることを知らず、お風呂の黴もいつの間にかすっかり無くなってしまっていた。
市内のファーストフードでアルバイトをし、ひと月に二度はライブに明け暮れる私を、あなたはしっかりと支えてくれた。客席にあなたが居ると、私はつい照れてしまう。だからいつもあなたには、家で待っていてもらう様にしていた。
「俺さ、ずいぶん帰っていない実家が、埼玉の見沼ってとこにあるんだけど。」
あなたが、布団の中でぼそりと呟いた。寒い夜のことで、私はあなたのからだにしっかりとひっつきながら、その言葉を聞いた。
「見沼に、こんな民話があってね…室町時代に、美しい笛の音を奏でながら歩く女性が現れて、その音に惑わされた男たちがぽつぽつと消えていく。結末を言ってしまうと、どうも人身御供を求めた竜神様の意向によるものだったらしいんだ。」「…リュージン様、なんでそんな怖いことするんだかね?」「…でもさ、俺、惑わされていく男どもの気持ちが、ちょっとわかる気がして。」
そう言ってあなたは、私の唇を、その唇でふさいだ。そして私をしっかりと抱きながら「君の唄を聴いてると、その民話を思い出すんだ。俺は惑わされて調布まで来たんだなって、たまに可笑しくなっちゃうんだ」、そう言って、少し笑ってみせた。
(参考資料・見沼の笛の音)
私はあなたを惑わせるほどの唄を、ちゃんと唄えていたのだろうか?
穏やかな毎日は、きっとずっと続くと思っていた。私のバンドがメジャーデビューできるレベルにならなくとも、そしていつか唄うことに飽きてしまっても、それでもあなたさえ居てくれれば、私はずっと幸せであれるのだと、私は、けして信じて疑わなかった。
あなたが雑誌に持っていた連載が、いくつか終わったらしかった。そういえば随分と、新刊の話も聞かないな―そう思っていた矢先のことだった。私はといえば、とある音楽雑誌に割と大きく取り上げられて、深夜のテレビ番組にほんのちょっとだけ出演してみたり、なんだか急に忙しくなりかけていた、そんなところだった。
「このままだと俺は、君の只のヒモになっちゃうな。」
あなたがそう言って、自らを嘲笑する。「…いいじゃない、仮に私が稼げたなら別に、それで困ること無いんだし」、私がそう反論するとあなたは「男っていうのは、無駄にプライドが高い生き物なんだよ」、そう言って今度は、やたら優しい顔をして見せた。
ある夜スタジオ練習から帰ると、あなたはあなたの少ない持ち物の総てを持ち出して、消えてしまっていた。大みそかには二人でガキ使を見て笑い、その六時間ほどの間中ずっと二人で包まっていた炬燵の上に、あなたからの短い手紙だけが残されているのを私は、泣いて泣いて半狂乱になってぐちゃぐちゃになってしまいながら、見つけてしまってまた泣いた。
「俺も、人を惑わす側にならないといけないから。だから今は、さようなら。でも俺はずっと、どこかで君の唄を聴き続けます。」
なんて自分勝手な手紙だろう―私は悔しくって悔しくって、その手紙を抱きしめる様にしながら、いつまでもいつまでも泣き続けた。
心が先に死んだ様な私の唄は、それから何故か妙に大衆にウケてしまった。しばらくして私は、それこそ調布のパルコの館内を探せば、どこかで必ずその写真を見つけられる程の、そういう存在になってしまったのだ。
否、調布どころじゃあない。渋谷のパルコのどこかにだって、私がカッコつけて気取ってドヤ顔をした、吐き気を催す程の醜態を晒した写真が、必ず置いてあるはずだ。パルコに限ったことじゃあ無い、TSUTAYAにだってHMVにだってディスクユニオンにだって、私の無様な宣材写真とその音源が、バカみたいな数置いてあることは、ちゃあんと知っている。
欲しかったものは、こんなんじゃあ無い―そうは思っても私は、もう、他の術を見つけられないのだ。
だから私は、今日も唄っている。
けして届かない想いであったとしても、唄ってさえいれば、いつかあなたが見つけてくれると、帰ってきてくれると―そう、信じているからだ。
私は今も、休みの日になると本屋へ向かう。あなたの新刊が出ていないか、もう何年も経ってしまったのに、それでも探してしまう。ネットでは死亡説も出てしまったあなたが、どこかのサイトでひっそりと文章を紡いでいないかと、小説投稿サイトはあらゆるものをチェックしている。たとえ名前を変えていても、あなたの書くものならば絶対に、私は見つけ出せる気がするのだ。
なのにあなたはけして、私の前に出てきてはくれない。
だから―私は、唄い続ける。だってあなたは私の唄に惑わされた。惑わされて調布まで来てしまったと、そう言ってあなたは、幸せそうに笑っていたのだから。
でも、もう泣きくたびれてしまったよ。
ねえ、本当に惑わされていたのは、私の方だったのにね。
🍎
今日は「瞳の日」なんだそうです。
瞳、と聞いて一番最初に思い出したのが、この曲のことでした。
これが出た時、私は高校生だったはず。大好きな林檎ちゃんとマサムネさんが…一緒に、歌っている!!!!!!!と、大興奮したものでした。
(画面上には「椎名林檎」としかクレジットされていませんが、実際にはスピッツのマサムネさんが一緒に歌ってらっしゃいます)
お正月早々ちょっと暗い物語になってしまいましたが、そういうことで今日は「瞳の日」にちなんで、この「灰色の瞳」という曲からイメージして物語を紡ぎました。
調布は私のヴォーカル教室や職場があった街です。矢野口に住んでいた頃は、一番近い都会として、だいぶお世話になりました。
著作権の問題とかうまく解決してもらう為にも、いつかこの「 #曲からイメージして書いたよ 」シリーズ、出版社の力で本にしてもらえたら嬉しいなあ。今年も頑張って書こう、それこそ人を惑わせる様に。
最新のリリースは「日本のうた☆春夏秋冬」です。お試しにまずは動画からどうぞー。
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