私だけの女神
なおこさんは高校の先輩だった。
放課後の美術室で、いつもこっそりと煙草を吸っていた。きっと顧問の小太りな先生だってそれに気づいていたはずだけれど、先生はおおらかだったので、せいぜい誰にも見つからぬよう、いっそなおこさんの為に喫煙の場を提供していたくらいなのかも知れない。
代々の美術部員に使い古されてきたイーゼルに、案外雑に作ったキャンバスを乗せて、なおこさんは指先まで油絵の具に染まりながら、熱心に絵を描いていた。進学校ではあったけれど、なおこさんはいつだって落第しない程度の点数しか取らずにテストを済ませてきたらしい。札幌にある美術の短大にさえ受かれば、あとはどうでもいいらしかった。
夏にあった学校祭の為の展示の絵を描いていた時、もう既に外は薄暗くなっていて、たまたま私となおこさんだけが残って部活動をしていたのだけれど、ふいになおこさんにキスされたことがあった。
まぎれもない、私のファーストキスだった。これがきっと煙草の味ってやつだ、そう感じた。
「だって、マイはかわいいんだもん。」
なおこさんは笑っていた。なおこさんには彼氏がいるはずだったけれど、そういったことがまるでどうでもいいみたいななおこさんは、なんだかとてもかっこいい女の様に見えた。
★
高校を出て、私は浪人していた。その内に何もかもが嫌になってしまって、付き合っていた男の暮らす札幌のマンションに、押しかける様にして同棲を始めた。
予備校には行かなくなった。浪人してまで名のある大学に行ったところで、私はその経歴を生かせる自信も無かった。あの、高校の二つ上の先輩だったなおこさんの様に絵の才能でもあったら、私の人生ももっと明るかったかも知れない。
「あのさ、居るのはいいんだけど、お金を入れてくれないと困る。」
ある日、男にそう言われた。相手とて学生で、高校時代の同級生という間柄で、札幌市内の大学に通うのに桑園に親が用意してくれたきれいなマンションに住んでいるという、なんとも恵まれた坊ちゃんだった。とはいえ生活費も、私が居候していたらそりゃあ足りなくなるのも当然で、私は「ごめん」と言うだけ言って、夕飯の買い物に出たついでに求人誌を手に入れて、ざらざらと眺めるだけ眺めた。
大学には可愛い女の子も居て、だから私なんて存在は別に、家に帰ったらそこに居るから押し倒して抱くだけで、居なくなれば居なくなったで、違う可愛い女の子を連れ込めるスペースが空く—つまりはそういうことなのだろう。たかだか高校時代に一学年320人中のだいたい半分の割合の女子の中から選ばれただけの私は、彼の運命の人とかそういう存在では無い。それくらい心得ていた。
働くのも莫迦らしかった。ふと、なおこさんがときどきサッポロファクトリーのどこかで似顔絵描きの仕事をしている、という噂を、美術部時代の友人から聞いたことを思い出す。丁度いいことに今日は日曜日で、そういったイベントごとが催されているタイミングのはずだ。私は一旦、男がサークル活動で留守にしている部屋まで戻ると、スーパーの買い物袋を玄関にそのまま置き去りにし、少ない貴重品をバッグに詰め込んで部屋を出、もうすぐ夕方の街を札幌駅に向かって歩き出した。
地下鉄にほんの少し乗って、サッポロファクトリーの最寄り駅で降りる。イベントごとならば夕方には終わってしまうかも知れない。それでも私には、今日このままなおこさんに会える、という直感が冴えわたっていた。
案の定、二階の片隅で小さなテーブルに画材を広げていた—まさにもう、それらを片付けようとしていたなおこさんを、私はちゃんと見つけられた。高校時代に、まるでコスプレみたいにしか見えなかったセーラー服を気だるそうに着ていたはずのなおこさんは、今やすっかり大人の女性じみていた。エスニック調のワンピースを身に纏い、長く伸ばした髪は細かなウェーブで波打っている。
「なおこさん」、私が声を掛けると、なおこさんは一瞬、目を丸くした。「…マイ?」「そうです」「ずいぶん、大人になったね」「なおこさんだってもう、私の知らないお姉さんみたいになっちゃいましたよ。」
「売れないんだあ、似顔絵」、そう言ってなおこさんは雑な手つきで画材をしまってゆく。「結局、知り合いのツテで場末のスナックみたいなお店で食いつないでいるだけ。短大とはいえ美大まで出たのにね、私、何やってるんだろ。」
そんなことを口にしながらも、なおこさんは特に荒んではいなかった。もしかすると、細々とでも生活を営めるだけでなおこさんは充分だったのかも知れない。昔から、多くを望まないきらいがある人だったことは知っている。別に、雨がしのげる家と空腹を満たす食事とその為のお金と、絵を描く手段さえあれば、なおこさんはそれで良かったのだろう。
私が何も言わずとも、なおこさんは「家、おいでよ」と言ってくれた。その「おいで」がどこまでの意味だったかはわからないけれど、とりあえず私はその晩、なおこさんの菊水にあるアパートに泊まってゆくことを許可された。若い女性が一人で住むにはあまりにも古ぼけていて、隣室のおばあちゃんがよくおかずを作っておすそ分けしてくれるのだとなおこさんは笑っていた。「母親よりも母親みたいなばあさんよ」、そう話すなおこさんは、もう長らく実家には帰っていないらしかった。
近所のセイコーマートで、つまみとお酒となおこさんのJPSを買ってきてある。部屋にはレゲエみたいな私にはよくわからない音楽が垂れ流されていて、ざらざらした固い壁に、なおこさんの描いたらしき裸体の女性の鉛筆画がいくつも貼られていた。
「女の子のからだってさあ、魅力的だと思わない?」、もう既に酔い始めているなおこさんが、煙草をくゆらせながら言った。「私、ガリガリよりもちょっとふくよかくらいが好きなんだ。土偶だってさ、おっぱいとかおしりを強調したデザインのが可愛くない?」「…縄文のビーナスってやつとか、可愛いですよね」「さすがマイ、こういう話がちゃんと通じるあたりが、あたしの後輩!」
そう言ってなおこさんが私に抱きつく。ああ、そういえばこの人は私のファーストキスを奪った人だった、と私は改めてそのことを自覚する。別に、そのことが私の心に何か影響を与えたとか、そういう不利益みたいなことはいっさい無かったのだ。むしろ私は、なんとなく付き合ってしまった同級生なんかより、なおこさんに奪われてしまった方が余程、ありがたみを感じられる気すらしていたのだ。
「こんな私でもね、厭世観ってやつに囚われた人間なのよ。」
なおこさんは私に抱きついたまま、片手で灰皿に煙草を押し付ける。この灰皿もまた、なおこさんがどこかの窯で焼いてきたものだと言う。
「女のからだをしているだけで、欲望をおっ立てられて突っ込まれて—なんかさあ、そういうのに疲れちゃって。ふわっふわな女の子をギュってして、まるでぬいぐるみを抱くみたいにして眠る方が、私にはよっぽど満たされる。」
なおこさんはそう言って、私の首筋に顔を埋めた。
「めんどくさくって、でも死ぬのもまためんどくさいから、淡々と生きることにしてる。いつか終わりが来る日も、チラシの裏にでもいいから絵が描けていればそれで私は幸せ。」
私は、なおこさんの波打った髪をゆっくりと撫でながら、彼女の体温を感じた。大きめな胸にはブラもされておらず、申し訳程度にスリップが一枚纏われているだけであることは、綿のワンピースごしに私にもわかるほどだった。こんなに適当にしてきた彼女の生活はおそらく、一般的なものよりはただれているはずだ。厭世観で苦しめられるくらいには、異性からも求められてきたに違いない。
ああ、こんな私にだからこそなおこさんはあの日、キスをしたのかも知れないな―そう思った。
私がいろんなことから逃げてなおこさんに逢いに来てしまったことを、きっと、なおこさんはもう嗅ぎつけているはずだ。
私にこういった堕落の性分があることを、高校生の時分から、なおこさんはちゃんと気づいていたのだろう。野生の勘—もしくは、同じにおい、なのだろうか。
「生きるって、めんどくさいですね、なおこさん。」
私はなおこさんの熱いからだや、髪からしている汗のにおいを嗅ぎながら、この人は案外こんなに可愛らしかったのか、と少し感動すら覚えつつ、呟いた。
「でも私、それでもなおこさんに逢いたかったんです。めんどうな人生だけれど、なおこさんに逢えたら、なんだかもうちょっとやっていけそうな気がして。」
それはもしかすると、私の人生でたった一度のファーストキスを奪ったなおこさんに対して、責任を突き付けようという、私の狡さだったのかも知れない。
でも、なおこさんに逢えたなら、なおこさんこそが私を—このつまらない人生に繋ぎとめる、唯一の存在になることは確かだったのだ。
なおこさんを食わしていく為なら、適当に仕事を見つけよう、そう思った。選ばなければ、バイトくらいはいくらでも見つかるはずだ。それこそ繁華街も歓楽街も抱えた大都市がこの札幌だ、女二人がひっそりと余生を送るみたいに暮らしていくことを、この街はけして拒まないだろう。
「共依存、だね。なんて不健康なんだろう。でも喫煙歴が長い時点であたしは不健康だから、もう乗り掛かった舟ってやつなのかな。」
なおこさんの指が、私の下着をTシャツごしに撫でている。私は縄文のビーナスほど豊満なからだでは無いけれど、なおこさんを安心させる程度の包容力くらいは、どうにか持ち合わせていると—彼女に、どうも認められたらしかった。
「命を繋ぎとめることの為の共依存なら、むしろ健康的なんじゃないですかね。」
なおこさんの臀部を申し訳程度に飾っているレースのTバックが、なんとも愛らしいな、そう思いながら私は、なおこさんに囁きかける。
「生きるなんてことはきっと、多少薄汚い方法でもいいんですよ、なおこさん。いつか天に召される日まで生き延びたならば、それだけできっと、神様は百点満点をくれるはずです。」
あの日以来に久しぶりに唇が触れて、私は懐かしい味を思い出し、なんとなく安堵した。自分にも心から求めていたものがあったことに、私はほっとしたのだ。
それがどんなにいびつな形であっても、だ。
私にはそれが、ほかの何よりも大切なのだから。
おしまい
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