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母の為にではなく自分の人生を生きること

先日、私は、母が私を産んだ年齢になった。

上戸彩さんや綾瀬はるかさん、そして20代の頃にはさんざんっぱら憧れた益若つばささんが同学年—そう考えると、子どもの頃に感じていた「36歳」よりもずっと、「36歳」という年齢は、若い。

ただ、私が生まれた当時だと36歳での出産は多くは無く、うちの母は一人だけ、みんなのお母さんより年上だった。だから感覚もだいぶ違って、押し付けられるものも多く、特に「お風呂は二、三日に一回でもいい」とか「ムダ毛は剃刀で剃ると濃くなるからダメ」とかそういった、いじめにもつながりかねない「母の常識」については、本当にもう、私の心をぐしゃぐしゃにしたものだ。

去年の秋に母に30万ほどの金銭を要求されて以来、私は母と疎遠にしている。

私の上の兄のお骨を無縁仏にする為のお金なんだけども、どうしてそれを、母は私に要求するのか。本来ならばそういうのって母が用意しておくべきことなのではないか—と、怒りが煮えたぎった。

とはいえ兄という人は私も大好きな存在なので、お金を出したいのはやまやまだ。しかし我が家もそうそう30万をぽーんと出せる余裕も無く、しかも今の母に30万を渡したところで、まともに兄のお骨の為に使ってくれるかどうかも正直あやしいところはある。

最近、ウェブ広告でこんな漫画を見かけた(買ってないけど)。

この漫画の中で、母子家庭の娘が母親の金づるにされる話があって、広告に出ていたところしか読んでいないのだけれど、すごく共感してしまった。

私は、私の人生を生きなくっちゃいけないと思っている。

高校を卒業してすぐ、ほんの一時期だけれど、二部の大学に通いながら昼間はバイトをし、一人暮らしをしていた時のあの、驚くほどの自由な感覚といったらもう、信じられないほどだった。

秋にはメンタルをやられてしまって大学を辞め、冬には実家に連れ戻された私は、それから数年間、狭いアパートの中でひたすらに母と向き合って暮らす毎日を送らざるをえなかった。学生時代はまだ学校があったから良かった。でももう学校を辞めてしまったら、昼夜をしじゅう母と過ごすしかない(ときどきバイトにも挑戦したけれど、長くは続かなかった)。

不思議なもので、かなりがっつりな投薬治療を施されていたにも関わらず、病状はまったく良くならなかった。むしろその後、無理矢理に家を出て、お金が無くて通院できなくなってしまってからの方が、私のメンタルはむくむくと回復したのだ(…断薬はおっかないのでおすすめはしません)。その一因にはやはり、母との生活が終わったことも大きく影響している気がする。

世の中には限りなく母親に向かない人がいて、私の母は間違いなくそれだった。子をもうけようなんざ考えずに、えんえんとどこかの男性の愛人として生きてゆけば良かっただけなのだ。

私の父とも結婚はせず、なのにまるで正妻のような顔をし、その癖陰ではお妾さんと嗤われて、娘の前で、娘の父親の悪口を語る—それが私の母だった。私は父を好きでいたくとも、好きでいることを許されずに育ってきた気がする。亡くなってしまった父が私に注いでくれた愛に気づきながらも、母の前では、それを手放しで受け止めることができなかった。

近年は「毒親」なんて言葉も知られるようになり、やっと「親を愛せなくてもいい」という考え方も広まった。産めよ増やせよの時代は終わったと思うし、それでも「子どもはつくらないのか」と訊いてくる層に対しては、なんとかハラスメントとかそういう言葉をあてがうことも可能だ。

こうやって外堀を固められるみたいにしてやっと、私みたいなどこかで壊れてしまった子ども達は、親の為の人生では無く、自分の為の人生を送ろうと思えるようになるのだ。

高校時代、私はよく意味もわからずに寺山修司の詩集なんかを読んでいたけれど、今こうして読み返してみると、惹かれたわけをなんとなく納得できる。

あと、すごいざっくりとしたことを言うけれど、仏教とかの「なんやかんやみんな神様仏様の一部分だよ」的な考えはとても心地よい。嫌いな人も含まれてしまうのはまあしょうがないとして、私も、私の好きな人たちも皆、同じひとつの中の一部分なのだ—と考えると、自分の母親がどうであれ、まるでどうでもいいことの様に思えてくる。あ、別にあやしい宗教に目覚めたとかそういうんではなく、もともと仏教や神道について齧るのが好きなんです。

母をゆるすとかゆるさないというよりも、もう、私という存在は私でしかなく、その上で私は私の好きな人たちとおおもとのところで繋がっている幸せのカタマリなんだと、だから母という存在くらいまあ気にしなくてもいいんじゃないか、と、それくらい悟って?いければいいなあと思う。まだどうしても自らしがらみを握りしめている部分はあるけれど。

それに、私と同じくらいの年齢の子どもがいたとて、職場で同僚いじめをして喜んでいる女性もいる(うちの職場にね)。人間、いくつになったって成熟しきれない人もいるのだ。だからそういうのはあくまで「その人の問題」であって、私が悪いわけではない。

この「私が悪いわけじゃあないこと」というのも、年々理解していっている。たとえ悪意を向けられたとて、それが仮に私に向かっていたとしても、私が受け止める必要のある悪意では無い—ということもめちゃくちゃたくさんある。あれだ、道を歩いていて勝手にぶつかってこようとするおじさんを、露骨に避けたっていいのだ。そのおじさんが結果、ふらついてコケたってどうだっていい。私はそれを、受け止めなくったっていい。

そう、だから私は別に、母とは無関係に幸せになったっていいのだ。

いくら理解しても理解しても呪いのごとくまとわりつくこの母への苦しみを、こうして時折言葉にして綴って、それを何回も繰り返して—言霊信仰みたいなものだ、私は幸せになったっていいのだと、私は私の人生を送っていいのだと、そうやって自らに言い聞かせてやりたい。私が育てるべき子どもは私自身なのだから。


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