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「気づき」と「きっかけ」

人は自分が関係の無いことには目を向けないものだと思う。自分自身のことを考えるのが最優先事項であって、自分自身のことを考えられることでようやく「自分以外の誰か」に目を向けることができ、「自分以外の何か」を考えるべきなんだと思う。いや、むしろそうでなければ駄目だろう。「自分以外の誰か、何か」を最優先に考えて行動してしまうようでは「自分自身」を保つことなんてできるはずもない。だから、人が自分が関係の無いことには目を向けないことは当たり前のことなんだと思う。けれど、頭の中で「それじゃ駄目だ」と思っているから親身な感じであろうが、つっけんどんな感じであろうが許容し助け合う…ようにしていくものなんだとも思う。

でも、そうした程度の差はあれども許容し助け合う…ことがなかったらどうなんだろうか。許容し助け合う…中に入れない(享受できない)人は、その人の人間性に問題がある…ということなんだろう。自分が置かれている状態って…そんな状態なんじゃないかって考えてしまうくらいには病んでいて疲れ切っている。自分自身を理解してもらうための努力が足りなかったことは否めないから、こうした一面があることは否定できない。それは自分自身の中でちゃんと認識していなければならないことだと思っている。しかし、何度となく書き綴っているように「理解してもらうための努力をしていても、状態は変わらなかったと思う」接する機会が多くなれば多少は変わるものだと思うし、むしろそれでも変わらない方がおかしい。けれど、それ以前の問題として「新しいもの」を受け入れることが少なかった(その時期が長期間に渡って続いていた)環境(または人)が、接する機会が増えたとしても変わることができるだろうか。簡単には変わらないと思う。むしろそんな曖昧なもののために毎日神経をすり減らして(今以上に)今よりも酷い状態になっていたんじゃないかと。

いや、やっぱりこれは言い訳で私自身の人間性の問題なんだろう。こんなことを考えてしまうこと事態…

人は自分が気付かないことは誰かに指摘されなければ気付かないもの。何かのキッカケがなければそのことに目を向けないもの。全てを自分で把握して理解することなんてできるはずもない。何かがキッカケで「気付き」が生まれる。それが「理解」に繋がっていく。私自身に人間性に問題があるから「指摘も、きっかけも」なく許容され助け合う…中にも入れなかったんだろうし、そうした対応をとってももらえなかったんだろう。自分自身を理解してもらうための努力が足りなかったことは否めないから、こうした一面があることは否定できない。それは自分自身の中でちゃんと認識していなければならないことだと思っているけれど。

ただ、どうしても「自己責任」の一言だけで片づけられてしまわれるような問題ではなかったんじゃないかって思うことそのものが…なんだかんだ言って、現状に甘えている証拠なんだろうか。

何から何まで自分で気付きキッカケに巡り合うのは難しいでしょう。「新しい場所」での経験は「新しい生活」なんだから、その場所に既にいる人達が「新しい場所」の「新しい生活」を伝えなければ、気付きやキッカケに巡り合うことは難しい。それができないのなら「新しい人間」を受け入れるべきじゃないと思う。「新しい場所」に入ってから十数年、ずっと「自分で気付きキッカケに巡り合う」ことを求められることは間違ったことではないけれど、「伝えられていないこと」に対してまでそれを求められ続けて…限界。

キツイデスヨ、自分の言い訳に私という存在を使われ続けているのは。その割に、もらうものももらっていないですし。なんで続けてきてしまったんですかね。「力を得る為に」だけじゃない「惰性」で来ちゃったんだろうなあ…と思う次第。感謝はしているしそれ以上に反省もしているけれど、「居場所」は間違えていたのかなと考えてしまう今日この頃。

そんな生き方を変えたいのだけれど、心身ともに辛く思うように動けない。…やっぱり、逃げて甘えているのかな、現状に。

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