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全ての人に知って欲しい、私の母親が「一切家事をしない」素敵な理由の全て

私の母親は高学歴で国際線のCAという花形の職業に就いた人でしたが、現在はただ自宅で「家事をしない」を極めている不思議な人です。彼女が「家事をしない」のには明確で素敵な理由があります。
自分の無価値観に苛まれて、「誰かに必要とされる」ことで自分の価値を確認している全てのひとへ。

読んで欲しい人

「自分はなんの価値もない人だから」
「私なんていいの、どうせ無価値なんだから」
もしかしたら、あなたも同じようなことを感じた経験があるかもしれません。
私はこれまで、自分で自分を深く傷つけるこんな言葉達を使う人に多く出会ってきました。けれど、当時の私には「そんなことないんだよ」を上手に伝える術も、その根拠も持ち合わせていなかったため、とても歯痒い思いをしました。

国語の授業で『みんな違ってみんないい』という金子みすずの詩を習ったでしょう?そのままで最高なのに。そう思い続けて、今に至ります。

実は私の母親もまた、その一人でした。側から見れば「リア充そのもの」の彼女もそんなふうに思っていたのです。
彼女の生き方を通して私が感じた全てを、自分の無価値観で同じように悩む方々に。同時に、したくないことを続けている全ての人に。

人生レベル18の瑠夏が考えたとっておきの「私は私でいいんだ、と思える物事の見方」を聞いて欲しくなりました。聞いてくれたらすごく嬉しいです。スキが溢れます。

無価値観を抱いていると起こること

私は昔から根拠のない自信をたくさん持ち合わせているハッピー野郎なので、誰になんと言われても(うそ。言われ続けたらメンタル死ぬ)、私は価値のある人間なんだ!と信じて疑いませんでした。将来の夢は「伝記になる事」で、それは今も変わっていないほどです。へへへ

私の母親は高学歴で国際線のCAという花形の職業に就いた人でしたが、現在はただ自宅で「家事をしない」を極めている不思議な人です。彼女が「家事をしない」のには明確で素敵な理由があります。

それは、自分は自分のままで最高なんだ、と知るためです。

彼女は若干複雑な生い立ちでしたが、誰もが憧れる道を歩んできた女性です。それは全て彼女の努力の上に成り立つ結果ですが、一つだけ、彼女が長年達成できずにいたテーマがありました。
それは、「自分という人間を自分で認め、愛し、大切にすること」です。
彼女は自分自身に「無価値観」を抱いていたのです。

”無価値観”を抱いていると、どのようなことが起こるのか。
私が間近で彼女を見ていて思った例を挙げてみます。

・自分がここにいても良い理由を作るためにしたくないことをする
・したくないことをするからイライラする
・だから目に見えるオーバーな感謝がないとやってられない
・好きなことしかしない人に腹を立てる
・しなきゃ良いじゃんと言われると、「自分は必要ない」と言われたように感じて酷く傷つく
・自分には価値がないから居場所もない、と思う

私の母親はこんな状態のループに陥り、よく家族と衝突していました。

したくないことをするメリットはあるか

私の母の例を見ていただければ一目瞭然だと思いますが、彼女は「したくないことをいやいやする」を何年間も続けていました。
どうしてもしたくないタスクだからこそ、日を追うごとに、その労働に釣り合う対価として「多大なる感謝の強要」を家族全員にするようになりました。

彼女のこの行動で幸せになった人は誰でしょう。

そうです、ただの1人もいないんです。

彼女が「家族のため」という言葉を呪文のように唱えながら頑張っていた「家事」には「家族の太陽である母親が常時イライラする」というとんでもない副作用が伴っていたのです。
当然ですが、私たち家族にとって彼女の存在はとてつもなく大きく尊く大切なものです。それは彼女がいくら家事をしようと、逆に彼女が何もせずとも、「存在」そのものに価値があるのですから何も変化しません。

もちろん、その認識は父親にも妹にも同じようにあるものですが、当の本人、母親にだけはその認識がありませんでした。
私たち家族にとっては、家が綺麗に保たれていないことよりも、母親が常にイライラしていることの方が問題だったのです。

私がみてきた中では、彼女が「したくないこと」をし続けるメリットはどこにもありませんでした。だからもし、あなたが「したくないこと」を続けているのなら、一度考えてみて欲しいのです。
あなたのその努力は、誰かをハッピーにするのか、あなたの心が苦しんで悲しんでいるのにも関わらず続けるほどの理由があるのか。

一切の家事をあえてしなくなった母の話

彼女のイライラが噴火した時、私たち家族は幾度となく家族会議を開いてきました。初めのうちは、彼女の琴線に触るようなことを知り、控えるために。けれど一向に事態は変わりませんでした。もしかしたら私たち家族の変化があまり見られなかった為かもしれませんが、これではいけない!と再び話し合いをしました。

そこで初めて見えてきたのが、「彼女は自分の価値を目に見える形で感じたいがために、価値=必要性と変換し、「母親の仕事」を全うする自分であり続けようとしていたこと、またそのタスクをしたいとは思っていなかったことでした。

それを知った私たち家族の意思は全く同じでした。
「只今を持って、ママは何もしなくて良い、
ただ笑って生きていたらそれで良い。」

それだけでした。
その後は父と妹と一緒に、料理を含む全ての家事を分担して生活をしています。不便だと感じることはちっともありませんし、母親が幸せそうに生きている姿を目にできるので、これまで以上に家族の幸福度は上がりました。

彼女は「自分を認め、ありのままの自分を愛し、大切に思う」という最大のミッションに専念するために、いわゆる「主婦業」を卒業しました。

これが私たち家族にとって、最善で最良な選択だったことは誰もが理解しています。

これを読んで、「母親失格だ」なんて思う人はいるのでしょうか。
もしかしたらそれは、私の母親と同じように頑張ってきたお母さんかもしれませんね。
自分の努力は無駄だったと言われているように感じてしまうかもしれませんが、私は実際に家事を分担してみて、母親業の凄さを痛感しました。
世のお母様は例外なく、素晴らしく、いつでも感謝の対象です。
無駄だなんて一ミリも思ったことはありません。

無価値観とどう向き合うのか

さて、ここからは私の母親の話ではなく、
「したくないことを続けている人」や「自分に価値を見いだせていない人」に聞いて欲しい話をしますね。

そもそも、「価値」とは何か。辞書を引いてみますね。

 物がもっている,何らかの目的実現に役立つ性質や程度。値打ち。有用性。
あるものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質。

だそうです。
私が着目したのは、下段の「他のものより」という部分です。
「価値」とはつまるところ「何か他の比較対象」がなければ判断し得ない、ということになりますよね。

私は算数や数学があまり得意ではありませんでしたが、それでも分数の時は分母を揃えなくては足したり引いたりできない、とならったのは覚えています。

何が言いたかったのかというと、「あるもの」を数値化する時、それは何か全く同じ条件を持つ対象がなければならないのです。人間の特性とは、数とは比べ物にならないほどに多種多様な条件を持つところにあるはずです。
つまり、誰一人として比べるに値する対象を持つ者は存在しません。

それから、数を並べて比較するのは、「人間」という数とは異なる性質と条件を持った第3の存在です。数同士でどちらが上などと比べたことは一度もありません。数はただ、そこに存在しているだけです。何なら数学的にはどんな数字よりも0の発見の方が大発見とされたほどです。もし人間を比較するのであれば、それができるのは「人間以外」に他なりません。

この世界には価値基準など存在していないし、比較する権利を持ち合わせる人間もまた存在していないことを意味します。
では人が抱く「価値」「無価値」とは何を持って形成される概念なのでしょうか。

答えは、「自分」です。
あなたが自分であまりに主観的な「比較」をし、同時にあまりに主観的な「価値観」により自己をテンプレートに押し入れた、というだけなのです。

人はいつでも誰かに洗脳され、また誰かを洗脳しています。
ですから、あなたの「無価値観」が他人由来であると考えるのは間違っていませんが、私が先ほど散々な論理で説明したように、あなた以外にそれをなせる者などいないのです。

他者にどう言われようと、その指標を採用するか否かですら、あなた自身によって決められています。結局のところ、「自分」に意識を向けること、自分の選択に意識を向けてみることで初めて、自らを認め「無価値観ループ」から抜け出せるのではないでしょうか。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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