ハンセン病療養所の詩人たちと交流のあった詩人・大江満雄の「期待の次元」
以下の記事でも紹介したように、詩人・大江満雄は戦中に戦争賛美の詩を発表したことを反省して戦後の自分の思想をたてなおすという考えもあってハンセン病の療養所の詩人たちとの交流やハンセン病の問題に取り組んだ。大江は、病を開かれたものとして病を通じて日本、アジアの人々と交流できると考えていたが、戦後に出版された詩集『海峡』(昭森社, 1954年)にはこの考えが表現された詩がいくつか収録されている。そのひとつを以下に引用してみたい。
雪の夜
冬が
大地に栄養を あたえているのだ
闇の麦畑に
雪がつもっている
ぼくらは
重い病気から 健康をつくらねばならぬ
戦争による
飢えのなかから
冷酷な現実の
悲惨な現実の
絶望のなかから
栄養をとらねばならぬ
海のなかから
薬をとらねばならぬ
“憎悪を昇化せよ”
ぼくは
千万のブドウの葉をはった障子の
すきまから やってくる北風という 看護婦をむかえている
雪の夜という医者を むかえている。
この詩には、通常では悪いものとしてみられる病を特定の人々の間では共通の感覚として連帯を生む可能性があるものと考えていた大江の思想がよく表現されているように読むことができるだろう。
話は変わるが、以下の記事でも紹介したように、過去を振り返る立場には現在から振り返る「回顧の次元」と当時まで戻って振り返る「期待の次元」という2つの立場がある。
回顧の次元から大江の思想を考えると、ハンセン病の人々の抗争が結実したという結果があるので、大江の思想はよくみえる。しかしながら、この結果が分からない当時の立場である期待の次元から考えると、大江の苦悩もみえてくる。この苦悩を表現したと思われる詩が『海峡』に収録されているので、ひとつを以下に引用してみたい。
あけぼのの翼をかりて
わたしは
あけぼのの翼をかりて
海のはたてへ にげてゆきたい
あなたは
きっと両手で わたしの手をにぎり
からだを ささえてくださるに ちがいない。
あなたは わたしが 夜 あの海のはたての氷島で 目をみはるとき
ささやいてくださるに ちがいない。
あなたは わたしに
世界のこんとん 悪の悪の深みから飛び立つ力を
あたえてくださるに ちがいない。
あなたは わたしの心に
あの二つの相反した顔をもった異形のローマの古神マヌスよりも
すばらしい転換力を あたえてくださるに ちがいない。
あなたは わたしに
ふたたび海のはてから あけぼのの翼をかりて
かれらの前に立つ力を きっと あたえてくださるにちがいない。
この詩からは、自身の立場を先行きを不安に思い何か頼る思想や理論はないかと大江は模索していたのではないかと考えられる。もともと信仰していたキリスト教では大江の苦悩は満たされなかったようだ。当時、大きな支持を得て多くの人々が惹きつけられた思想はマルクス主義やアメリカの自由主義であるが、大江も他の転向した言論人と同じようにマルクス主義に関心を持っていた。
しかしながら、大江はマルクス主義に完全にコミットするわけではなく、ハンセン病の療養所の詩人たちとの交流や彼らの権利回復運動に積極的に関わるようになった。上記に引用したような当時の大江の心境を考慮すると、勢いのあったマルクス主義に自分の思想の根拠を求める可能性もあったと思われるが、大江はそうせず別の方向から思想を再建する道を選んだ。これが大江の思想の独特なところであると私には思われる。
戦後の大江の思想は、吉本隆明が鶴見俊輔との対談「思想の流儀と原則」で鶴見の思想の特徴として指摘した「身をやつす」という考えに近いようにみえる。『鶴見俊輔と希望の社会学』原田達(世界思想社, 2001年)によると、鶴見の思想に一貫したものに自らの高貴な出自からの逃避があったという。鶴見の「身をやつす」は生涯の問題であった。
一方で大江の関心がハンセン病の療養所に向かったのは、戦後であるようだ。敗戦時、大江は39歳であったが、この年齢から自身の思想を今までと異なる「身をやつす」という方向で再建しようとしたのは、反省の深さという点で驚異的である。ここにも大江の思想の独特さがあらわれているように思われる。
鶴見と大江の深い交流は、鶴見が大江のこのような部分に共感したからでもあったと思われる。しかしながら、生涯を通じて出自という問題と向き合い「身をやつした」鶴見、戦後に反省して「身をやつした」大江は同じ「身をやつす」思想でもその起源やモチーフは大きく異なっていると言えるだろう。
以下の読書会で取り上げる本にも大江のことに多くのページが割かれているので、鶴見や大江に関心がある方はぜひ読んで欲しい。
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