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鶴見俊輔『日本の地下水―小さなメディアから』についてのメモ⑥―波が引いた後で

 以下の記事でも紹介したように、鶴見俊輔は、ある行動、出来事、思想などをかたちが変わったとしても「保ち続ける」ということを重んじていると私は考えている。最近、鶴見俊輔『日本の地下水―小さなメディアから』(編集グループSURE、2022年)を読み進めているが、鶴見のこの考えをよく表現された文章に出会い印象に残ったので紹介していきたい。

 この本に収録されている「デモ学生はどこに行くか―「烽火のろし」」は、1966年の早稲田大学の学費上げ反対闘争に敗北した全学四年生連絡協議会の参加者が発行した『烽火』という同人誌を紹介した文章である。鶴見はこの雑誌を以下のように評価している。

(前略)(全学四年生連絡協議会の参加者は)卒業式ももたれず、自主卒業という形でこの人々は世に出たのだと記憶するが、この自主卒業という出発の姿勢を、何人かの人々は、社会に出てからも保ちつづけた。闘争は敗北に終った。その敗北はかえってかれらの中に、簡単な勝利をあてにせず持続してたたかう姿勢をつくった。

鶴見は、運動や闘争に敗北した後もかたちは違えど同じ問題意識(=権力への抵抗)を持ち続けていることを『烽火』の中に見出している。鶴見は以下のエピソードを引用して「『烽火』は、今日の日本で試みられている重要な実験の場所である」と述べている。

ヘルメットと角材で武装した活動家が、自己の正当性を保証する手段として、なぐりあう姿を目の前にした時、私は一人の傍観者でしかありえない自分を痛切に感じていた。/その瞬間から、私がもっていたセクトに対する疑問は、セクトそのものの否定になり、その不信は固定してしまったのである。それは、理論的にそうなったというよりは、感覚的なものであった。(中略)一つの闘争、運動が勝利するためには、その闘争、運動に敵対する一切の者を、具体的、暴力的に打破することが必要だという単純な考え方は、結局、目的とはうらはらの敗北の連続を生み、消耗から自滅へむかうしかないだろう。

個人的に話をするときわめて柔軟で巾広い視野をもち、話のわかる人間が、組織や党派に関係する話になると、まるで話が通じなくなるという経験を何度もしたことがある。もっと極端な場合には、党派を代表してアジ演説をしていた本人が、俺はそうは思っていないのだが・・・とつぶやくことを聞いたことさえある。(中略)私の党派内の人間に対する不信感は、今なおぬぐいきれずに残っている。

上記のような挫折を乗り越えて権力への抵抗という問題意識をいかに保ち続けるかという課題を引き受ける『烽火』に鶴見は期待を寄せていたのだろう。

<お知らせ>
鶴見俊輔『日本の地下水―小さなメディアから』(編集グループSURE、2022年)の読書会を以下のように開催しますので、ご関心がある方々はご覧覧ください。

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