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方言周圏論を放棄した柳田国男という言説の元ネタ

 方言周圏論は柳田国男が唱えた方言の伝播に関するひとつの仮説で、『柳田國男事典』(勉誠出版, 1998年)によると、『蝸牛考』(刀江書院, 1930年)で「蝸牛」の異名が、京都を中心にした同心円状に分布しており、中心から遠いほど古く、中心に近いほど新しくつくられた名称であるとするものであり、この仮説はその後の方言研究に大きな影響を与えた。しかしながら、柳田は晩年にこの論に必ずしも執着していなかったという。私は、この話を聞いたことがあったが、出所が―言い換えると、柳田がどこで述べたのかが―分からなかったので、疑問に思っていた。しかしながら、先日この話の根拠のひとつになっていると思われる柳田の文章をみつけたので紹介していきたい。紹介したい文章は、『方言学講座  第1巻』遠藤嘉基等編(東京堂, 1961年)に収録されている「わたしの方言研究」柳田国男である。この文章は、1960年に最晩年の柳田の語りを筆記したものであるが、以下に該当する箇所を引用したい。

方言集圏論というものも、何かもっともらしいことばを使わないと世間からばかにされるから言ったようなもんで、あれはどうも成り立つかどうかわかりません。いまは決してあれをそのまま守ってはいません。すべての単語が同じように京都を中心に波紋のように拡がった・・・・そういうことは言えないですからね。しかし、小さな地域については波紋のあることは確かだし、それから辺境現象というものも確かにある。辺境現象なんかもおもしろいけれども、法則づけることができるかどうかは、これは実はまだ確信を持てないんです。

この文章から柳田が晩年には必ずしも方言集圏論に必ずしも執着しておらず、この論に確信を持っていなかったことが分かる。「世間からばかにされる」というのは、『蝸牛考』が出版された当時は現在で言うところの民俗学という領域が未成立あり、学問と趣味の間の境界があいまいであったので、自身の著作が趣味的であると考えられる可能性があったということであろう。そのため、当時柳田は民俗学を学問化することを意識しており、『蝸牛考』を学問的な著作とするために方言集圏論を唱えたのではないのだろうか。

 一方でこの語りは後年のものであるため、ある程度割引して考える必要もあるだろう。以下の記事で紹介したように、当時柳田は方言研究者・東條操の方言区劃論を意識しており、フランスの言語地理学の影響もあって方言周圏論を唱えていた。東條に対抗するため、本気で主張していた可能性もあるだろう。この回想でも引用部分以外でフランスの言語地理学の影響を認めている。

 私は、この論の形成は、柳田の中で日本列島の「人々の移動」の認識と深く結び付いていると考えているが、このことはあらためて紹介していきたい。

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