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忘れられた哲学者・平澤哲雄を忘れなかった南方熊楠

 拙noteでも何度も取り上げている平澤哲雄という人物は様々な人物と交流のあったが、以下の記事でも紹介したように死後ほとんど言及されることはなくなってしまった。平澤は南方熊楠とも交流があったが、『南方熊楠書簡 盟友毛利清雅へ』(日本エディタースクール出版部、1988年)に収録されている南方から毛利宛ての書簡の中にも南方が平澤に言及している部分がある。以下に引用してみたい。

(昭和十一年十一月中旬か)(前欠)(前略)駒井能登守(亡友平沢哲雄そのままの色白く眉目清秀でいと落ちついた人)が、家来一人つれて観測に来り、(後略)

この部分は南方が中里介山の著書『大菩薩峠』を評価した部分の抜粋になる。この南方の『大菩薩峠』の評価は、選挙に落選した中里に書簡を送ったが返信がないため中里を励ます文章を書いて欲しいという本多秀麿という人物からの依頼に応じて本多に向けて南方が書いた書状の中に含まれているものである。それを毛利宛ての書簡に転載したようだ。重要なのは、この書簡が書かれたと推測されている1936年まで南方は平澤のことを忘れていなかったということである。上記で紹介した記事で指摘したように、平澤は死後急速に忘れられてしまった。南方にとって平澤は余程印象に残った人物であったのだろう。

 ところで、南方に中里を励ます書状を書くように依頼した本多秀麿に関しては少し調べてみたが、詳細は分からなかった。「ざっさくプラス」によると、雑誌『宮武外骨解剖』第4号に「本多秀麿翁が語る宮武外骨―外骨をめぐる人人(Ⅱ)―」裏田稔という文章が掲載されているようだ。この本多秀麿が南方の書簡の中に登場する人物と同一人物かは不明だが、同一人物であれば宮武外骨と南方は交流があったので、本多は宮武経由で南方と知り合ったのかもしれない。

(追記)上記の記事を読んだ方から本多秀麿ではなく、別の書簡にも登場する本多季麿ではないかとご教示いただいた。また、南方は平澤の没後もその妻の吉村勢子と交流があったことは以下の記事が詳しいが、今回の記事の本文で紹介できていなかった。以下の記事によると、南方は吉村勢子に自分の庭安藤蜜柑を送っており、吉村は南方とって特別な人物であったという。南方、平澤、吉村の間の交流の内容が気になるところである。(2021/7/9)


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