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民俗学研究者・中山太郎の文章に引用されたY先生

 以下の記事で紹介したように、雑誌『郷土風景』第1巻 第1号(郷土風景社, 1932年)に民俗学研究者・中山太郎は「古代若者の性的問題と特権」という論文を投稿している。

この論文は、前近代の村における女性の結婚に関する村の習慣を検討したものであるが、論文中に以下のような引用がされている。

(前略)大正五年に同地方(筆者注:東北地方)を旅行されたY先生のお話しによると、尻屋村に近い田部町にも此の古俗(筆者注:未婚の女性は村の男性の共有物であったというし風習)が近年まで存していて、区長の某氏が娘を青年に提供しなかつたために、襲撃された事件を聞いたとのことである。(後略)(一部を筆者により現代仮名遣いにあらためた。)

このY先生は、言うまでもなく柳田国男のことであろう。『柳田國男全集別巻1』(筑摩書房, 2019年)の年譜によると、柳田は1916年(大正5年)の5月27日から6月2日にかけて青森県、秋田県を旅行している。おそらくこの旅行中に柳田は中山に提供した話を聞いたのだろう。

 興味深いのは、中山の論文中で他の人物の名前を挙げているのにも関わらず、柳田だけが「Y先生」と表記されていることである。理由のひとつは、この論文が性に関する民俗を取り上げているため、柳田に配慮したという可能性である。よく知られているように柳田は性に関する民俗に関心を持ちながらも正面から取り上げることはほとんどしなかったので、中山は遠慮したのではないだろうか。

 この論文が投稿される以前にも柳田と中山の間では文章をめぐる一悶着があったようだ。『柳田國男事典』(勉成出版, 1998年)の南方熊楠の項によれば、柳田は『南方随筆』(岡書院, 1926年)に書かれた中山の「私の知っている南方熊楠氏」という文章の訂正と削除をめぐって南方と書簡のやり取りがあったという。中山は柳田のこのような反応を経験していたので、より配慮が働いたのだろうか。

 余談だが、中山は柳田からの評価が低かったということが言われているが、『独学の冒険』礫川全次(批評社, 2015年)によると、柳田は中山の1930年に出版された『日本巫女史』を欠点を指摘しながらも高く評価していたという。

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