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澤田四郎作の日記を読む③―昭和8年編

以前、以下の記事のように澤田四郎作の日記を読んだ際の発見を投稿したが、今回は昭和8年の『日誌』を読み終えたので、気づいたことを投稿していきたい。昭和8年の『日誌』も以前紹介したウェブページより閲覧できる。

①高尾彦四郎と交流があった。高尾彦四郎は高尾書店という古書店の経営者であったようだ。『古書目録』、『絶版書目録』を編集している。国会図書館オンラインで調べてみると、澤田の『日誌』の中に登場する『博多の仙崖』は、淡川康一の著書で高尾が出版に関わったようだ。この本が澤田に寄贈されたことになる。

(昭和八年八月)四日 高尾彦四郎氏より「博多の仙涯」恵与さる。非売二百部印刷中の第(空欄)号。

②昭和9年の『日誌』にも登場するが、文学者・石川道雄との交流。東京帝国大学在学時代の澤田の同期。

(八月)三十一日 夜石川道雄君来る、尾の道より帰京の途中なり。診察、往診をすまし、十一時頃難波に出る。久し振りでいろいろ話し合ふ。平浅により、幸楽によりて帰る。

③『俚俗と民譚』を読んでいた。この雑誌は、中道等が編集していた雑誌である。この雑誌を読んでいたことから、中道等と交流があったことが伺える。ちなみに、中道等は、柳田国男の『明治大正史世相篇』の執筆を桜田勝徳とともに手伝っていた。桜田は漁業史の研究の先行者として語られることがある(もっともそれ以外の側面が知られていないとも言えるが。。。)が、中道は現在、語られることはほとんどないように感じる。今後研究がされるであろうことが期待される人物のひとりであろう。また、下記の引用部分に登場する「前金切れの由」の詳細が気になるところだ。

(九月)四日 (前略)俚俗と民譚第十三号来る、前金切れの由(後略)

④小説家・杉本捷雄(はやお)との交流。杉本の小説の中に澤田モデルの人物が登場しているという。

(九月)四日 (前略)杉本捷雄君の創作中のSは小生、Ⅰは井葉野といふ。小説あまりうまからず。

⑤前回の記事でも取り上げた佐渡の民俗学研究者・青柳秀雄との交流が、昭和8年の『日誌』からも確認できる。交流がはじまったのは、昭和8年以前のようである。

十二日(日) 佐渡小木町の青柳秀雄氏より佐渡研究創刊号恵与さる。(後略)

余談だが、青柳秀雄は、他の関西の民俗学研究者とも交流があったようだ。以下のウェブページによると、小島勝治とも交流があった。小島勝治の発行していた『昔』という雑誌の送付先に青柳の名前が確認できる。この雑誌は澤田にも送付されていたようであるが、小島は澤田を経由して青柳と交流をもったのであろうか?

⑥澤田の日々の人々からの話の聞き書きの仕方が感じられる一例が、日記の下記引用部分に登場する。

(十二月)十九日 (前略)夜、井葉野来り、近所のおでん屋に行く。博徒の親分なる者ゐて、すこぶる面白き話をす。

下記のウェブサイトから閲覧できる「「知」の結節点で 澤田四郎作 人・郷土・学問」によると、澤田は自分の診療所に来た人々から話を聞いていたようだが、澤田にとっては飲食店で出会う人々からも話を聞いていたようだ。自分の日常生活と調べることが連続しているのが非常におもしろい。

⑦澤田の生活習慣は、かなり夜型であると思われる。昭和8, 9年の『日誌』を読んでいると、自宅に帰ってくるのが深夜をまわったり、夜更かしをして訪問者と語り合っていたりするなど、夜に自分の仕事以外の研究、読書、趣味などの活動を行っていたようである。私が同じように夜に趣味の活動を積極的にしていた人物として思いつくのは、渋沢敬三だ。澤田や渋沢のような夜型の生活習慣が、当時の働いている知識人層の中でどれほど一般的であったのかが気になるところだ。

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