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柳田国男のロシア理解?―「郡誌調査会に於て」のメモ

 『定本柳田國男集  第二十五巻』(筑摩書房, 1970年)に収録されている「郡誌調査会に於て」という文章を読んだが、この文章はいくつか興味深いポイントがあっておもしろい。定本の内容細目によると、この文章は1918年7月に『信濃教育』381号に掲載された文章であるが、その中のひとつを紹介していきたい。柳田国男がイギリスのフレーザー、ドイツのグリム兄弟、デュルケム、フランスの言語地理学(注1)の影響を受けており度々これらの国々の動向を紹介していることは知られているが、以下に引用する箇所ではロシアの民俗学研究の動向を簡単ながら紹介している。

(前略)話はどうも飛び飛びになりますが、露西亜の今日のやうになつた道程には長々しい歴史があるのであります。近くは一八六一年亜歴山二世が農奴開放を紙の上で断行し、ツルゲニエフが猟夫日記などを書いた頃と、マキシムゴルキーなどが盛に田舎の生活を書いた此頃との間には、彼國では田舎の研究が非常に進んで居るのです。前世紀の終位が最も盛な時代でありました。猟夫日記などの書き方にしても、農民に対する大な同情は有りますが例へばそれは旅行者が車上より見た同情であつて、まだ其態度は貴族的であります。又処女地などでも其篇の主人公ネヅダニエフと同じく、一段高い所から一段白い手を延しての握手であります。これがゴルキーの時代になると、尤も此人は自身が下層民の浮浪生活者であつたからでもありますが、作中の人物と同じレベルで田舎の生活を書いて居る。かういふ傾向の変動には原因のあることで、彼國ではこのツルゲニエフ去りゴルキー来るまでの二十年間が、地方研究の最も隆であつた時で、独り本國のみならず、西比利亜を始めとし、中央亜細亜から蒙古迄の研究などが徹底的に行はれました。民俗学の参考書は世界一流模範的のものを持つているのであります。(後略)(筆者により一部を現代仮名遣いにあらためた。)

上記の引用文中のシベリアを調査した研究者は無政府主義者・クロポトキンのことを念頭においていると考えられる。柳田はこの時期ロシアのことを民俗学が世界でもっとも進んでいると高く評価していたことが分かる。高く評価している理由は、ロシアの作家や研究者が、調査対象とする人々と「同じレベルで田舎の生活を書いて居る」からであろう。

 私は海外の民俗学の動向や歴史を紹介する柳田の論文をいくつか読んできたが、ロシアのことに言及している文章を読んだことがなかったので、読んだとき非常に驚いた。1918年はロシア革命が行った直後であったので、たまたま触れたのだろうか。クロポトキンが柳田へ与えたであろう影響は、『アナキスト民俗学―尊皇の官僚・柳田国男』(筑摩選書, 2017年)で論じられているということは以前から知っていたが、後回しになっており読むことができていなかった。これを機会にこの本を読んでみたい。

(注1)フランスの言語地理学の柳田への影響に関しては以下の記事で紹介した。


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