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荒木優太さん『サークル有害論』についてのメモ②―鶴見俊輔のサークル論は日本的か?

 先日、荒木優太さん『サークル有害論』(集英社新書、2023年)の読書会を行わせていただいた。読書会には著者の荒木さんをお招きして、恐縮ながらいろいろな質問をさせていただき、非常に勉強になった。たとえば、この本の中の鶴見俊輔のサークル論の以下の解釈に疑問を持った質問を行った。

(前略)谷川(雁)が、かつて「東京へゆくな」という詩を書き、『サークル村』運動でも地方の土着性に重きを置いたパフォーマンスをとったものの、運動中でさえ東京に頻繁に出張し知識人との交流を欠かさず、運動が終わってからは東京にある株式会社テックで語学教育に注力するようになったのは、単なる中央からの承認欲求というより工作者概念にふくまれる必然の要請であるようにも思える。対して、鶴見的管理者は、地域社会に紐づけられた集団内部で繰り返される持続的な付き合いが優先される。谷川にとって「村」とはただの地域社会である以上に日本的伝統につらなる共同体であったが、鶴見にはそのような強調点はなく、共同体は時代を大きくまたがない現在性の時制のもと捉えられていることにも注意したい。(P108)

 上記に引用した部分では谷川雁と鶴見のサークル論が比較されており、谷川はサークルを「日本的伝統につらなる共同体」であると考えていたが、鶴見はサークルを「現在性の時制のもと捉えられている」という。この部分は私の理解と異なるので疑問を持った。私は以下の記事で紹介したように、鶴見にとってサークルは日本の伝統的な共同体や人びとにつながっているものであると考えていた。

 この疑問に対する荒木さんの応答を伺って納得した。谷川は日本の伝統的な村落共同体をユートピア化して過去に遡行しようとする考えがあるが、鶴見にはそのような考えがみられないため、上記の引用部分のような記述にしたという。私は伝統的な村落共同体を理想として固定してしまう考えは確かに鶴見にはないのではと考えた。

 この点に関連して後日考えたのは、鶴見にも過去に遡行しようとする考えがないわけではないということだ。たとえば、『アメノウズメ伝―神話からのびてくる道』(平凡社ライブラリー、1997年)では、『古事記』のことが論じられている。ただし、過去に遡行する動機は日本の伝統的な村落共同体という理想を目指したわけでなく、どちらかというとその中にある共同体を超える普遍性を見出そうとしていたと私は理解している。この日本の伝統から普遍性を引き出そうとする思想は、石川三四郎、灯台社の明石順三などに連なるものである。明石はアジア・太平洋戦争中に兵役を拒否したことで投獄され、獄中で『古事記』を読むことでキリスト教に類する普遍的な愛の思想があることを知った。石川、明石は鶴見に影響を与えており、鶴見は両者を積極的に取り上げた。鶴見の過去への遡行は普遍的な思想の追及に力点を置いていたと考えられるだろう。

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