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鶴見俊輔『日本の地下水―ちいさなメディアから』についてのメモ⑬—『近代出版研究』第3号の座談会より

 先日、『近代出版研究』第3号(皓星社、2024年)が出版された。この号の目玉の1つは巻頭に掲載されている「座談会「書物雑誌」と雑誌の「書物特集」」である。私もたまたま別件で訪問した際にこの座談会の前半に同席をさせていただいた。(この話は皓星社のメルマガに載っており、以下のページより閲覧可能。)

この座談会の中で森谷均の昭森社が発行していた『本の手帖』も紹介されている。稲岡勝監修『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ、2013年)で森谷は以下のように立項されている。

森谷均 もりや・ひろし 生年月日:明治30年(1897年)6月2日 没年月日:昭和44年(1969年)3月29日 出生地:岡山県笠岡市 学歴:中央大学商科(大正9年)卒
生家は大地主。(中略)昭和9年退社して上京、斎藤昌三の要請で経営危機に陥っていた書物展望社に入社し、その再建を手伝う。10年独立し、京橋で昭森社を創業。(中略)20年4月空襲で事務所を失うが、敗戦後の21年神田神保町に移転して出版業を再開。事務所の階下には喫茶店「らんぼお」、隣にはアテネ画廊を併設し、「近代文学」の同人や三島由紀夫、武田泰淳らの会合に利用された。同年窪川鶴次郎、菊池章一を編集者に招いて雑誌「思潮」を創刊。35年「金子光晴全集」の企画・出版を開始、36年「本の手帖」、41年「詩と批評」などの文芸誌も発行した。(後略)

 『本の手帖』と森谷に関しては、以下の記事で紹介した鶴見俊輔『日本の地下水 ちいさなメディアから』(編集グループSURE、2022年)で取り上げていることを思い出した。

鶴見は「詩の本を作りつづける―「本の手帖」」でこの雑誌について以下のように評している。

私(Kamikawa注:鶴見俊輔)は、一五、六年前に、森谷均に二、三度あったことがある。私が酒をのまないので、つきあいの時間をもつことがなくて終わった。それから十年以上たって友人のトロチェフの詩集『ぼくのロシア』を出版してくれた。(中略)/損をしても、損をしても、詩の本を出しつづけた。これを四〇年近くつづけるということは、むずかしいことだったろう。『本の手帖・別冊・森谷均追悼文集』(非売品、一九七〇年五月、東京都千代田区神田神保町一ノ三、昭森社、大村達子発行)によれば、そんなことができた理由は、二つほどあるらしい。一つは、原稿料をはらわないということ。これで何十年もよくつづいたものだと思うが、とにかく彼は一九六九年三月二九日に七一歳で死ぬまで、このことをつづけた。もう一つは、美しい本をつくったということ。(中略)彼が戦後に編集した『本の手帖』も八一号まで出たが、紙も印刷も実に見事なものだった。こんなに美しい本を出していると、原稿料をはらわなくとも、著者は、自分がむくいられると感じるのだ。/彼の人がらをつたえるのは、たとえば次のような話である。
「頭の痛い(であろう)手形操作も一仕切りついて、森谷さんは、やおら、鋏、小刀、糊、糸などを出して、破れ本のお化粧直しをはじめる。森谷さんは実に器用だったし、また、この特技を楽しんでいたように思う。」(長橋光雄「神田錦町一ノ一七番地」)
そして彼は、最後まで自分で原稿の依頼をし、自分でゲラ刷りの校正を、たのしんでいたのだ。
「しかし、二度目の入院を切り抜けて退院した森谷さんは、以前のようにゆったりと自分の椅子に坐って、相変わらずゲラまで自分で見る丹念さであった。三十年余りそうやって暮らしてきたのである。それに、明治人の我慢強さもあったろう。何かそこに坐っていなければ気すまないようなところがあった。」(黒田三郎「森谷さんの思い出」)
 何にもないものを相手に、将棋か碁かチェスかをさしつづけている人の姿を見るような気がする。そういう流儀をえらんだものにとって、商売上の景気のあがりさがり、それとあまりかわりのない作品評価のあがりさがりは、それほど気にならないものだっただろう。(後略)

 上記について、鶴見は森谷のことを商業から離れたところで美しい本を自分でつくり続けたと評している。以下の記事で紹介したように、鶴見は自分の手でつくること、持続することを重視していたので森谷を「日本の地下水」で取り上げたのだろう。

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