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忘れられた哲学者・平澤哲雄の留学期間と大学進学年―ざっさくプラスのスキマ

 拙noteでも度々取り上げている平澤哲雄だが、昨年末に投稿した以下の年譜によってその生涯が少しずつ明らかになってきたので、今年から「謎の男」でなく「忘れられた哲学者」として取り上げていきたい。以下の平澤の年譜は不完全であると断っておいたが、この年譜の中で課題のひとつとしてあげていた平澤のアメリカへの留学期間、早稲田大学の進学時期に関して新しく判明したことがあるので、早速紹介していきたい。

国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる平澤の『直現藝術論』(下出書店, 1922年)によると、平澤は4年間アメリカに滞在したと述べられている。この情報を採用すると、平澤は1913年6月にアメリカに出発しているため、帰国は1917年になる。しかしながら、上に引用した記事の(注1)で指摘しているように、1916年に平澤は来日したインドの詩人・タゴールと面会してている。また、1919年に早稲田大学政治学科を卒業しているため、時系列的に明らかな矛盾が発生してしまう。よって、『直現藝術論』の中のアメリカ滞在期間は間違っているのではないかということが言える。ちなみに、出発した年である1913年は以下の記事でも指摘したように、立教中学校を卒業した年を考慮すると正しいと推測できる。

 では、平澤の帰国日はいつごろになるのだろうか。美術研精会が発行していた雑誌『研精美術』97号(1915年5月号)に、平澤が「グラスの外より」という文章を投稿しているのを発見した。この文章の末尾には執筆された年月が記載されており、1915年3月26日となっている。文中には、「自分も帰国後まもないのであるから」と述べられており、この時期の近くに日本へ帰国したことが分かる。『直現藝術論』では、4年間アメリカに滞在したことになっていたが、実際の滞在期間は約1年半であったようだ。平澤と交流のあった南方熊楠によると、平澤は「法螺の音が太い」ようだが、アメリカに滞在していた期間にも誇張があった。

 この帰国時期を考慮すると、平澤の早稲田大学への進学時期も分かる。『早稲田大学一覧 大正3年』(早稲田大学)によると、高等予科の修学年限は4学期で、学期は4月から7月10日(1学期)、9月11日から12月24日(2学期)、翌年1月11日から3月(3学期)、4月から7月10日(4学期)と分けられている。入学が可能なのは、1学期と2学期である。同一覧によると、早稲田大学の大学部は、修学年限は3年で学年は9月11日に始まり翌7月10日に終わる。入学は学年のはじまりのみである。この早稲田大学のカレンダーに平澤の経歴をあてはめると、以下のようになる。

1915年3月以前 アメリカより帰国

1915年4月 早稲田大学高等予科に進学(『直現藝術論』より)

1916年7月 高等予科卒業

1916年9月 早稲田大学 大学部政治学科に進学

1919年7月 早稲田大学 大学部政治学科を卒業(『早稲田大学校友会会員名簿』(早稲田大学校友会, 1925年)より)

上記の時系列が、ここまで整理してきた情報が矛盾なくおさまるものであろう。『直現藝術論』のアメリカへ4年間滞在していたというのは、やはり誇張であったようだ。

 ところで、平澤の留学期間や早稲田大学への進学時期を特定するきっかけになった文章「グラスの外より」は、以前「ざっさくプラス」で検索した際にはヒットしなかった記事である。その際の検索結果は以下の記事にまとめているが、『研精美術』に投稿された平澤の記事は、第105号(聯合個人展覧会号)に「個人展覧会に就て」のみであった。「グラスの外より」は『研精美術』97号の「思潮欄」にまとめられているため、見落とされてしまったのかもしれない。弘法にも筆の誤りか。。。

 最後に、平澤が投稿していた『研精美術』を出版していた美術研精会にも触れておきたい。『日本近現代美術史事典』多木 浩二・藤枝 晃雄監修(東京書籍, 2007年)には、美術研精会は立項されていないが、明治期の美術展覧会の発展を論じた部分で「文展の開設以前は、(中略)日本画の日本美術院、日本南画会、(中略)、美術研精会、(中略)など民間の小団体がさまざまな形態により展覧会を開催しており」と述べられているため、日本画の関係者が集まっていた団体であったことが分かる。『日本美術年鑑 第1巻』(画報社, 1911年)を確認してみると、美術研精会に関して以下のように説明がなされていた。

明治二十九年遠上素香、村岡應東氏等深川区内在住の画家によりて組織せられ、方角都下の巽位に当るを以て巽画会を命名し、始めは日本橋常盤木倶楽部に於て屡々展覧会を開き来りしが、会員漸次に増加し、事業多端に赴くを以て、会規を立て基礎を固ふし、南米岳氏入りて専ら会務を見、三十八年後は毎に上野公園に展覧会を開くに至れり、爾来会状著しく発達し、会員殆んど全國各地方に普及し其数現時千二百五十名を算す。 本会は機関雑誌月刊『多都美』を発行し、絶へず会員間の研究に資し、着々会務の進捗を計れり、猶ほ邁進して斯界に盡すところあらんと云ふ。(一部を現代仮名遣いにあらためた。)

私が確認した限りウェブではほとんど情報がなかったが、当時芸術界では有力な団体だったという印象を受ける。平澤はどちらかというと東洋の絵画や芸術の理論に関心を持っていたため、美術研精会と通じるところがあったのだろうか。

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