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平易な言葉で正確に描写する

ふと思う。「詩」の言葉が苦手になってきてるかもしれない。

言外の意味があったり、言語化できない意味・強度を含んでいたり。シニフィエとシニフィアンが常に一致していたり。濃密な描写、流麗な流れ、適切な修辞。意外な意味のジャンプ。

一般に評価される要素、というよりそのバトルこそが詩/一部純文学であり、そのような言葉に恍惚としたことは僕も当然何度もある。目指してもいた。

しかし小説を書き始めて3年ほどたつと、ただ現実を正確な言葉で写し取ることのほうが自分にとって美しい行為なのではないか、と思うようになってきた。

自作には音楽家や画家、写真家がよく出てくるが、彼らは共通して、自己表現(内面のわかりやすい形での表出・他人からの評価・肩書の獲得)ではなく、技術を持って現実を描写することに重きを置いている。

何度も繰り返し、彼らを書いてしまう自分を振り返る。
自分は多分、文学的な人間ではなく、観察者なのだと思う。
感じ方の根底には多分、自然界は人間が付け足さずとも最初から美しいという実感がある。人間にできることなど小さいじゃないか、と。
だから2010年代は芸術から距離を置いて、生活し、登山ばかりしていた。ただ歩き、存在することを感じ、風景に驚嘆し……

平易な言葉で世界を正確に描写しようと試みること。表現としては古典的にすぎるように思える。しかしそれは自分の世界認識の仕方であり、結局は、世界と分かち難く関わり・相互に作用し・変化しつつも止まる自己を言語化する方法なのだと思う。

自分にとって小説を書くということは、世界を理解しようと試みることだ。目の見えない人が、見ることはできない顔を撫でて理解しようとするように。

写実は存在への感謝であり、諦念でもある。多分。


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