迫害された800人のアルメニア難民をたった一人で救った日本人
第1次世界大戦(1914~18年)で、現在のトルコを支配していたオスマン帝国が敗北しました。
戦勝国となったギリシャはトルコ西部の港湾都市・イズミル(ギリシャ名・スミルナ)を占領し、ギリシャ・トルコ戦争が勃発します。
ギリシャ軍はイズミル周囲に防御線を築き、外交での解決も模索する構えを見せていましたが、トルコ軍は実力行使でイズミルを奪還する作戦に出ます。
1922年8月26日、トルコ軍はイズミル周囲100kmにわたって全面攻勢に出て、数日のうちにギリシャ軍は総崩れとなり追い込まれてしまいます。
1922年9月、ギリシャ軍はムスタファ・ケマル率いるトルコ革命政府の反撃にあい、イズミルはトルコ軍によって奪還されてしまいます。
イズミルの街が戦火に包まれる中、ギリシャ軍の人やアルメニア人が窮地に陥り、イズミルの岸壁に殺到します。
イズミルに停泊していた各国の船は、それぞれ自国民を優先して乗船させるとイズミルを出向していきました。
取り残された難民は、トルコ軍に追われ、混乱し逃げ惑いますが、彼らを乗せ助ける船はありませんでした。
その時、イズミルの港に日の丸を掲げて停泊していた日本の商船がありました。
日本はこの戦争では中立の立場でした。
しかし、船の上からこの難民らの苦境を見かねた船長日比左三は、日本へ持ち帰る為に船へ満載に積み込まれていた絹やレースなど、当時はとても貴重であった積荷を海へ投げ捨てるように命じます。
そして、逃げ場を失っていた、ギリシャ人とアルメニア人の難民、約800人を救助し東慶丸に乗船させます。
難民を追ってきたトルコ軍の指揮官は難民たちの引き渡しを要求してきました。
しかし、日比船長は怯むことなく「この船に乗った難民の、たとえ髪の毛一本にでも触れれば日本への侮辱と見なす」と言い放ち、逆にトルコ軍の指揮官を威嚇しました。
ギリシャやアルメニアの人達を攻撃していたトルコ軍はなぜか指揮官だけでなく兵まで、日比船長を始めとする日本人船員に対抗し攻撃するトルコ兵はいませんでした。
エルトゥールル号遭難からトルコ人は、日本人に対する特別な感情があり、突然現れた伝説の日本人に対し、トルコ人率いる軍隊は感情が混乱してしまい、日本人には手が出せなかったと考えられます。
こうして、女性や子どもを含むギリシャ人・アルメニア人をトルコ軍から守り通した日比船長の東慶丸は、難民達を乗せ、無事にギリシャの港まで送り届けることに成功しました。
この日本人船長の勇気ある決断により、800人の命を救われた。救われた難民の証言の数々は船上での日本人の礼儀正しさや、優しさを非常に鮮明に表している。ギリシャでは100年近く前の出来事ながら、この出来事が記憶されている。世代から世代へと語り継がれている。ギリシャ人のなかには「ココロイタイ」という日本語を知っている人が多くいる。あの時、日本の船に救助されたギリシャ人が日本人船員の話した「心が痛い」という表現が口伝えに今のギリシャ人に伝わっている。
参考文献:
他国が誰もアルメニア難民を
救おうとしない中、
日本人だけが自らの積み荷を海に
投げ捨ててでも
助けようとしました。
トルコ軍が日本人の言うことを聞いた背景には
かつてのエルトゥールル号の
日本人に対する恩義があったからです。
国籍や人種を問わず、弱きを助け、
強きを挫く日本人精神が
一貫して貫かれていました。
日本人の愛情精神は時代を超え、
国境を超え、
人々の心に深く残り続けています。
その美しい日本人精神を今の時に決して
失ってはならないと思います。
先人に恥じない日本人でなくてはならないと
思います。
美しい日本精神を取り戻すために
取り組ませて頂いています。
少しでもご関心がある方は
是非、ご覧ください。
お待ちしております。
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