見出し画像

デイミアン・チャゼル「ラ・ラ・ランド」

ハリウッドへと向かう渋滞のハイウェイ。そこに立ち往生する一人一人の若者たちが、皆、果てなき夢を追いかける「愚か者」たち。裸足でセーヌ川にに飛び込んで、そんな土産話を聞かせてくれるだろうか。それともどしゃぶりの雨の中、傘もささずに踊り出すだろうか。
冒頭のタイトルコール。彼氏を置いて俳優の夢を追いかけてやって来た女の子が唄い出す。テクニカラーが鮮やかに、華やかに舞い、躍り、交わる、右から左からダンサーたちが飛ぶ、このあまりに見事なオープニングからしてもう涙が溢れてきそうなほど心つかまれてしまう。そこにはカルフォルニアのまばゆい太陽に照らし出された「夢」の輝きが文字どおり踊り出さんばかりにきらめいている。
俳優志望のミア、エマ・ストーンと、ジャズピアニストのセブ、ライアン・ゴズリングも、今はまだ夢をつかみきれないしがない若者。
ときめくほどまばゆいタイトル明け。絶え間ないエンジンと排気音。小うるさいクラクションが見るものに「夢」の始まりから現実に引き戻す。甘い夢はたやすく転がってはいない。
オーディション前に車内で練習するミアを、急ぐセブが追い越していく。けたたましいクラクションとともに。そして「FUCK YOU !」。サインを送るミア。二人の最初の出会いは、追いかけた夢の欠片に埋もれてひどく現実的だ。
それを知るのは、これから二人が「出会う」ことを知っている観客だけなのだということに、実は密かに、しかし大っぴらな、映画の夢がある。
小賢しいまでに小生意気な、優しい、デイミアン・チャゼルの、映画に生きる人々(言うまでもなくこれから映画が語ってくれる人々のことだ)と、映画を生きる人々(言うまでもなく映画が語る人々と同じ時、同じ想いを過ごす人々、観客のことだ)への愛が、見るものを引き付け、また見るものと同期する。オープニングにつかまれた夢見る心は、その一人ミアのものと一緒になり着地する。
夢から現実へ、なんて書くとひどい落差を感じそうだけれど、この作品では夢見ることこそ現実で、人生は夢とともにある。そう、「ラ・ラ・ランド」では!
デイミアン・チャゼルはそんな彼らの等身大の姿にこそフォーカスを当てる。作品は、夢見る映画ではあるけれど夢見がちな映画ではない。夢を追いかけて生きる人々の現実をロマンティックに語るのである。
ミュージカル・ムービーなんて言うとき、人はどんな映画を想像するだろう。少なくとも、おそらく「ラ・ラ・ランド」は誰しもが思い描けそうな“ハッピー”な(能天気に歌って踊ってばかりいる)「ミュージカル」ではない。実のところ「ミュージカル」であることがとても抑制されているのである。
一番最初に打ち上げたハイウェイでの一大シーン。これこそ最も艶やかで目覚ましく鮮やかで華々しい。むしろいわゆる「ミュージカル」らしい華やかさはどんどんと縮小していく。
セレブたちのパーティーへ向かうミアたちルームメイトの軽やかな足どりやパーティー会場。
そしてミアとセブ、最悪だった最初の出会いから季節がめぐった二回目の出会い。丘の上での交流。そして運命的な展望台でのデート。
冒頭とパーティー、テクニカラーを鮮烈に採用した見事にパッションなミュージカルシーンよりも、後から後からむしろシックな、ミアとセブ二人のささやかな、微笑ましくさえもある心のコミュニケーションの表れとしてのダンスの数々が彩り豊かに心のなかによみがえるようなのは何故だろう。
「ミュージカル」という映画の嘘において、二人のそんなシーンの数々は気恥ずかしささえ覚えそうなのに、どこか地に足を着けてしっかりと心に迫ってくる。
今彼との約束のためにセブとの映画デートを放ってしまったミアが後ろ髪引かれながらする食事の最中に聴こえてくる、セブと「はじめて」出会ったとき彼が弾いていた一曲。立ち上がり走り出すミア。あまりに、テンプレートかもしれない。あまりに、ドラマチカルなワンシーン。しかしそうであるからこそむしろその説得力は否応なく高まる。だってこの映画は「ミュージカル」なのだから。
お約束と王道も何のその。あまりに強烈に、ポジティブに行われる「ミュージカル」であるという「夢」の印象付けは、まるでそれこそこの映画という誰かの夢を一緒に見ているように、嘘臭ささえある種のリアリティーなのだ。
まるでそんな嘘らしさこそ本物の感情の機微や揺れ動きから語られていく物語に生命を与えるように。たんに二人が踊っているだけ。そんなワンシーンには億千万の言葉を用いても語りきれないであろう、ある人とある人が出会い、恋に落ちて、まるで見つめ合うだけですべて何もかもがわかりあえてしまうような、またそれを見ている人もそれがわかってしまうような、恋人たちの不思議が詰まっている。なにせこの映画は「ミュージカル」なのだから!
だからこそ、そんな春から夏、そして部屋の影がだんだんと濃くなり、互いが互いの「夢」へと歩幅を進めていって、共にする時間が重ならなくなっていったとき、秋。
夢を追う二人であるからこそ共にわかりあえて、夢を追う二人であったからこそほとんど必然的なまでの別れよ契機はあまりに痛切であり、デイミアン・チャゼルの演出、シーンの、ショットの選択は見事にヒリヒリするほど辛い。
言葉なんていらないとばかりに踊りあった、長回しのミドルショットで同じフレームのなかファンタジックに通じあった二人が、お互いが追いかけた夢の内実をグサグサと言葉で言い合ってしまう決定的なシーンのカット、カット、カット、顔のアップ、アップ、アップ、そして互いを傷つけることしか口に出せない科白、科白、科白の切なさ。立ち上がり逃げるようにセブの家を出ていくミアを捉える、唯一の手持ちカメラによる揺れるショット。
春と夏、二人のロマンスに夢を見させてくれた映画は、途端、しかしなかば分かりきった、破局の現実をなでる。その映画的な上手さがまた、腹立たしいまでに憎たらしくも、鮮やかと言わずにはいられない上手さでもって感情を揺れ動かす。
デイミアン・チャゼルよ、どうかこの二人を別れさせたままでいさせてくれるなと。
頭のハイウェイで繰り広げられる大群舞からこのかた、映画は夢見ること、夢を追うこと、そして夢を持つ二人が出会うこと、その恋人たちの姿を、印象的で鮮やかな色調としかと腰の座ったショット、またそんな人々を、光景を、縦横無尽に軽やかに駆けていく、まるでそこにさえぎるものなどないような心地で走るカメラワークによって、巧みに、溌剌と描いていった。
そのポジティブなスピード感は、夢を追い、運命的に出会う二人の有頂天なまでの明朗さとして映画そのものの活気となっていた。
秋の手前、夏の終わりの寂しさと切なさは、そんな映画のストッパーだ。逃れられないほど必然的な。
セブの部屋。一人舞台の準備をするミアが映るのは昼間の居間。そしてベッドに一人入るミア。夜、帰ってきたセブが片付いていないミアの舞台の小道具の前で立ち止まる。すっかり寝入っているミアの横にベッドへと入っていくが、朝、起きるともうミアはいない。
同じカメラ位置で二人の、一人一人の居間と、ベッドを囲い、固いフィックスで捉える。すでにそこに破局の、目前に迫った予兆を描きながら秋は訪れる。
結果くだんのシーンなのだ。上手い、あまりに上手いゆえに憎らしいほどストレートな終わりの始まりと終わりの描き方。まさしく夢のような自在なカメラは、唐突にその動きを止めて現実を突きつける。
と、もちろんそんな虚しさで作品は映画を隔てない。夢の終わりの現実には、夢の続きが舞い降りる。なにせここは「ラ・ラ・ランド」。夢見ること、夢追うことこそ現実なのだから。
デイミアン・チャゼルは「セッション」でもそうであったように、全てをなげうつまでにひたむきな夢への一途さを、全力で肯定しようとする。捨てる神あれば拾う神あり。
出来すぎと言いたい人は言えばいい。一人舞台もさんざんな結果に終わり、セブとのケンカもしたまま自分の才能に絶望したミアは夢を諦めて実家へと帰ってしまう。そんなときセブのもとにミアへの大作映画のオーディションの打診が入る。
ドラマチック過ぎるだろうか。しかしそれもまたミアがセブとの映画デートへと走り出すシーンと同じように、むしろ「そうこなくては」というテンプレート、いや王道的な「嘘臭さ」であるからこそまさにファンタジックに、ロマンチックに、なりふりかまわぬほど夢を追い続けることを映画は力強く肯定する。
求めよ、さらば与えられん。拾う神とはデイミアン・チャゼルその人だ。
そんな物語の展開は、またひとつ新たな予兆を必然的に与える。それはある夢のハッピーエンドへの導きと、あるバッド、と言わないまでもビターな、決して交わらないエンド、二つの予兆だ。
そのときデイミアン・チャゼルが「ラ・ラ・ランド」において夢を追う二人、ミアとセブという恋人たちの姿を語ることで何を描いていたのか、その輪郭が立ち現れる。「ラ・ラ・ランド」は恋人たちのラブロマンスではないのだ。
もちろんそう見ることはできる。しかし重要なのは、人生の選択肢をストーリー上に散りばめながら、デイミアン・チャゼルは何かを選んだとき何かを得られなかった、夢の欠片に目配せをするということだ。まるで失われたもの、いやそもそも存在することさえできなかったもうひとつのありえたかもしれない「夢」を慈しむように柔らかく、そして切なく。
歌のないシーンが長く続いてからのミアのオーディション。ああ、「ラ・ラ・ランド」はミュージカルだったと思い知らされる。それもまた「ミュージカル」であるからこそ、本当に大事なことは、心動かすシーンは、“唄われるもの”なのだ。ミア、エマ・ストーンは歌う。夢追い人の姿を、そのどこか常軌を逸したように一途な想いを、かつて夢見た伯母の話を、自分自身の夢の原点を。そこでオーディションが唄われたということは、そのオーディションが唄われなかったそれまでのオーディションとは違うものであることを如実に語る。
それはつまりミアがその夢をつかむ一歩の布石である。では夢をつかむこととは、セブがバンドに参加しツアーで忙しくなったままミアと一緒にいられなくなったように、ミアの夢への一歩はそのままミアとセブの関係のその後について思わずにいられなくなる。
「ラ・ラ・ランド」がラブロマンスならそれでも二人が結ばれることこそハッピーエンドだろう。「ラ・ラ・ランド」(この作品である)は、いや「ラ・ラ・ランド」(この作品でありこの場所である)だからこそ、二人が夢を追い続けること、その姿を見送り、見守る。
それはハッピーエンドと言うにはあまりにビターだ。しかしまたそうすることによって恋よりもなお夢への、ひいては映画の、音楽の、ハリウッドへの愛を作品は語るのである。
デイミアン・チャゼルが二人の恋人の物語、「ラ・ラ・ランド」で描くのは夢を追うミアとセブの姿ではあるけれど、その視野にはきっと、もっと大きな何か夢を追うものたち同士でしかわからない、ある人と人との関係とでも言うべきものがおぼろげにも、はっきりとあったはずだろう。
その点で「ラ・ラ・ランド」は確かに「セッション」の監督作品であり、その延長にある。「セッション」が魂からぶつかり合うことで得がたき成功を勝ち得た物語となるのなら、「ラ・ラ・ランド」は魂からわかり合えたものがあえて離れることで互いが互いの得がたきもの、夢へと近づく物語だ。
思い返されるのは、「セッション」でも主人公が映画館の売店バイトをしていた女の子に片想いしていたというのに、先生とのレッスンが軌道に乗ってくると自分から別れを切り出したことだ。
大作への出演が決まったミアと、ハリウッドに残ることを決めたセブもまた、まるでそれこそが最も自然な形であるように、互いの夢のために別れる。それもまた一種の狂気なのだろうか。何度だって裸足でセーヌ川に飛び込むというような。
そこには、ラブロマンスなら定番となろう、ミュージカルでもありそうな、ドラマも歌も踊りもない。うなずき合い、認め合う、ただただ自然別れなのだ。その切り取りは鮮やかで、鮮やかであるゆえに切ない。
そして五年後、冬。俳優として成功したミアは結婚して子供もいる。ある夜、夫と立ち寄ったジャズ・バーの名前は「SEB's」。
自分の店を持つ夢を叶えたセブが、二人にだけわかる、はじめての「出会い」のあの曲を演奏する。そこでよみがえる。いや語られる、ありえたかもしれない二人の姿。可能性の未来。
彼らのあの日々も、訪れなかった日々も、書き割りの背景になってダンスとともに過ぎていく。そして垣間見る、普通に結婚し、普通に子供に恵まれ、普通に暮らす、ある普通の家族の姿。
懐かしきフィルム上映の体裁をとる演出がドラマティックで、ロマンチックで、夢見ることで繋がった二人にはそれが決してあり得なかったからこそより沁み渡る。
二人だけにわかるものは、当然それを見守ってきたものたちにもよくわかり、伝わる。ゆえに叶えた夢の姿には甘さよりほろ苦さが残る。それは夢追い人たちの愛と自由、人生の味わいであるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?