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ジュリア・デュクルノー「TITANE チタン」

「俺がそばにいる」。
その言葉がとても響いてくる。交通事故で頭にチタンを埋め込まれた女性と息子が行方不明となった男性の数奇な運命。彼女は怒りのやり場を、彼は哀しみのやり場を見失っている。
それは愛の喪失だ。女性は「父」の不在を、男性は「息子」の不在を嘆いている。たとえ彼女らが率直にそうは思っていなくても。
そして彼女は「性」に、彼は「若さ」に餓えている。何かを埋め合わせするように。
まさに彼女は頭の欠損をチタンで埋め、彼は息子の喪失を彼女で埋めた。
では心の欠落はどうするのか?そう、誰もが誰かに、いつか、いて欲しいものなのだ。人はそのことにはまったく気づかずに苦しんでいる。
ゆえに母親の存在が強烈だ。彼女は消えた息子を本当に愛し、それゆえに彼女の嘘にも夫の妄想にも勘づいている。だがそれを糾弾することはない。おそらく女性監督にしか描けない、この作品ほとんど唯一の「優しさ」である。
喪失の餓えと不在の苦しさを象徴するように、身体描写は極まっている。「髪」に始まり、「乳首」、「お腹」、「鼻」、「筋肉」、そして「妊娠」。
痛みと変化の様子は観ているものにも苦痛を伴うほど時にグロテスクだ。だがその強烈さこそ彼女たちの抱えた「苦痛」そのものではないだろうか。
ダンス、殺人、性、奔放に振る舞っているようでそこには自由の快感とはほど遠い閉塞感がある。
目を反らす前に、きちんと観て欲しい映画だ。見えるものに目をつぶるのではなく、見えないものを感じとるために。

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