森一生「荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻」(1952)

これほどまでに刀で人を斬るということ、そもそも人間が人間を殺すということの心理的、身体的な「重み」を徹底的に描き上げ、そして描き抜いた映画がかつてあっただろうか。
といってもうこの作品は70年以上前のものなのだ。その人の命の重みの得も言えぬ、苦しく、身に迫るほどの描き方は21世紀もとうに過ぎた今もなお鮮烈にして激烈であり、その余韻に震えるのみである。
決闘の日、その直前とそれまでの経緯、と書くにはあまりに胸を打つ人々の関わりと物語という現在と過去が行ったり来たりする黒澤明の大胆な脚本構成の中で光る人間関係、人物描写の静かだが確実に人の心を引き裂かんばかりの心理的リアリズムとヒューマニズムとともに、森一生の抑制されながらも耽美的な人間と情景の捉え方が切なくも苦しい。
やがて敵となることがわかっている無二の親友、三船と志村喬が語らうシーン。舞い散るさくらの何と艶やかで儚くも美しいことだろう。モノクロに照らされた花びらが色鮮やかに映える。それはそのまま、やがてすぐに命散ってしまうことがわかっている三船と志村喬の、人間の友情の美しさそのものだ。
加東大介と、その老いた父の舞のシーンや、その加東大介を介して三船と志村喬、互いが互いのことを想い同じことを言っているシーンなど、そのどれもに、心に、涙せずにいられない。
まさか黒澤の切実なリアリズムと熱いヒューマニズムが、森一生の張り詰めてロマンティックな映像性とこれほどまでに呼応するとは。
美しさで言えば森一生には師である伊藤大輔と組んだ「薄桜記」という傑作があるけれど、ある映画が人間的に訴えるものとしてはこちらの方が断然上を行く。
ラスト、チャンバラとも言えぬチャンバラの、人が命を殺り合うとは何事かを過激なほどあまりに泥臭い死合がこの映画の何たるかを全て持っていくが、それまでのドラマ、直前の緊迫感、特に襖を介した見事な演出、随所に森の卓越した手腕が光っている。
そういった黒澤脚本から涌き出る人間心理、人間ドラマの堅さや汗臭さを、森の演出は控えめに、しかし極限的にドラマとしてすくい上げる。そこにこそ映像的ロマンがある。
加東大介が江戸で志村を見つけ、籠に乗った志村がそれに気づいて声をかける、「元気だ」とただ言付けるその何か胸をわしづかむシーンは、しかし一方でたんにスタジオセットに雪を降らし、壁沿いに走る籠と歩く加東、のぞく志村をパンしながら繋げただけの何てことない映像だ。
だが身分違いでありながら互いに同じ男を心から想っているもの同志が命を奪い合うためにこそこそとしなければならない、そんな折にまるで今までと何も変わらないようにあの優しい抑揚の利いた声音で下男である加東に話しかける志村、そんな二人の姿をこれみよがしで大がかりな映像性で囲わずにすんなりと、ごく自然に撮れてしまうことに何よりも感動が生まれる。積もった雪道にすれ違う敵の二人、その姿だけでやりとりは画になるのだ。
いかにもドラマになるところのワビサビ。そんなところに森の生きた美学さえ感じられる。最後の死闘があまりに痛ましくなるのは、当然我々がそれまでに関わる人々の人となりを知ってしまっているからだ。その意味で本当に黒澤の脚本構成とストーリーテリングは憎たらしく素晴らしい。
特に直前で寒さに凍えて着がえる志村たち一行の姿を捉えるところなどは、冒頭に寒さに震える茶屋の老店主を出したように、この鍵屋の辻に集った人々に誰一人血の通わぬ人間がいないことを印象づける。当の標的、又五郎の千秋実でさえ鉄兜をぬいで耳たぶを温めるところなど、まさにもののあはれを覚えずにいられない。
そんな彼らが文字どおり血みどろになって、まるで赤子や獣のようにわめき、叫び、必死になって、型もへったくれもなくしたまま刀を振るう。その姿はリアリズムを越えた滑稽さをどこか持ちながら、それゆえに突き抜けて痛ましく物哀しい。刀を振る姿など、もはや誰も彼も刀にこそ振り回されるように、人の命を奪うためにある道具に使われているように、そのリアリズムにはもはやヒューマニズムは存在しない。
「荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻」は、時代劇を越えて「殺人」の人間性さえも問う傑作となっている。

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