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不満の多い母と同じことをしていた、という気づき

母はいつも不満を抱え、
愚痴の多い人です。


でも、
それを表すのは家庭の中だけで、
外では、非常に社交的で好意的な印象を持たれています。

家庭の中の顔と外の顔が全く違う人です。


家庭の中で日々、延々と繰り広げられる母の愚痴の内容は、
ありとあらゆることです。


家族・親戚のこと、ご近所さんのこと、知り合いのこと、
時事ニュース、通院している病院のこと・・・・・。


口を開けば愚痴ばかり、という感じです。


そして、
外では決して言わない、家庭の中でしか言わない愚痴を聞く相手は、
娘だと思っています。


母の求める「娘の役割」は、
愚痴を聞いてくれること、がとても重要なのです。


そして、その愚痴の内容を受け止めてくれて、
いくらでも愚痴を吐き続けさせてくれることを期待しているのです。


でも、
娘である私はしんどかった。


その「愚痴聞き役」という役割から「降りる」という選択肢があることを
知ったのは、私が30代後半になってからです。


その頃、私は生き方を変えたい!と強く望んで、
カウンセリングを受けていました。


その中の大きな気づきの1つが、
私が母と同じことをしている!ということでした。


母の愚痴を聞かされることが、すごくイヤだったのに、
私自身が本当によく愚痴っていたのです。


時には、母と一緒に愚痴っていたり、友人に聞いてもらったり。


まさか私が母と同じことをしていたなんてっ! 

本当に驚いたし、ぞっとしました。


私は愚痴を吐き続ける生き方をしたい?

いいえ。私は全くそんなことは望んでいません。


ならば、
母の真似をしていることを自覚して、そこから離れて、

愚痴を言わなくてもいい私なりの生き方を自分で見つけていかなくては!と思いました。


これは、母と異常に密着していた私の心の部分が剝がれていく
きっかけとなりました。


そうして、
剥がし続けていき、「私」を自分で創っていく力を身に着け続けています。


すると、
いつからか、 “私を苦しめる人” として見ていた母のことを
”1人の人間” として客観的に見られるようになりました。


・母も苦しかったんだね 

・母もものすごく頑張り続けてきたんだね

・母も愛されたかったんだね


そう思うようになりました。


私の中の「母」が変化していきました。


現実の母は何も変わっていませんが、

私の内側の(私が認識していた)母をとても愛おしく
感じるようになったのです。


そうすると、
母が愚痴を言っても、全く気にならなくなったのです。


私で良ければ聞くよ!と思うようになりました。

きっとそれは、私にとって母が愛すべき存在となったからです。


母から心理的に離れられたことによって、
初めて「対等」になれました。


母のせいにせず、私が「私の人生を歩んでいくんだ!」と
新たな私になれたことで、
母の影響をあまり受けなくなったのです。


愚痴を言ってきても、
「今のお母さんの気持ちはそうなんだね」と思うだけです。


その愚痴に私の心が反応することはありません。


「愛すべき存在」とは、相手の言葉に同調し、左右されるものでは
ありません。


なので、
母が愚痴を言っても言わなくても、もうどちらでもよいのです。


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