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#42 『無知』と『無恥』

2024年3月某日

通勤電車で受験だの就活などのキーワードが聞こえる度に、「あれ、自分は何年前だっけ」などと頭の中で数えている。だんだんと数えきれなくなっている状況に、老いを感じざるを得ない。

さて、(必ずしも年をとることと相関しないが)いろいろと経験を積んだり、勉強したりすると、自分を客観的に認識しやすくなる。知識や関係性の情報量が増えることで、「情報の集合」の中にいる自分の、相対的な位置が理解しやすくなることは、感覚的にも理解しやすい。相対化というやつだ。その結果、「自分らしさ」や「自分の強み/弱み」みたいなものも言語化しやすくなるだろう。ただし、知識や経験を増やすことが、誰しもにとって「良いこと、幸せなこと」かと問われると、いろんな意見があると思う。寓話みたいな例で考えてみたい。

例えば、「かしこく見られたい」と思う "勤勉な男" がいたとする。その人物は、「かしこさ」を手にいれるために、懸命に努力し、大量の知識をインプットしたとする。しかし、大量な知識を得た先にあるのは「知識の海というのはもっと大きくて、自分には知らないことだらけなのだ」という「無知の知」というディストピアかもしれない。彼は、彼自身が押し上げる「かしこい状態」というハードルを超えることができないのである。

一方、「かしこく見られたい」と思う "傲慢な男" がいたとする。その人物は「かしこい」とは思われたいが、努力はせず、聞きかじった浅い知識をなぞり、自分はかしこくなったと勘違いする。そして、自分より立場が弱い人々に知識を押し売り、悦に入る。彼は、客観的に見て「恥知らず」すなわち「無恥」なのだが、「恥を知る」だけの知識がない。

「かしこく見られたい」と思う "勤勉な男" と "傲慢な男" 、そのどちらが幸せだろうか。できればどちらもお断りしたいのが本音である。そもそも、「かしこく見られたい」などと思う必要はない。知識は眼の前の好奇心にふらふら寄り添いながら辿ればよいのだし、「ああ、(自分が)面白かった。」と自己完結していれば良いのである。そうやって肩の力が抜けた人が「知的な人」として認知されるのだと思う。筆者も来世ではその境地に辿り着きたいものである。

柳のように生きましょう。
ほなら。

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