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杉並区散歩 ~謎が深まった杉並

杉並区ってどこでしょう。

僕はあまり知らなかったし、意識することもなかった。
中央線沿いの新宿方面。ちょいちょい「杉並」という看板や学校で地名に触れることがある。杉並区より、「荻窪」「阿佐ヶ谷」「高円寺」と言えば通じるかな。吉祥寺は西東京市(間違えました、武蔵野市です)になるな。

区としては、実は世田谷区の北だったんね。
電車(中央線)では新宿区を抜けるとすぐ中野区、そして杉並区はあっという間に通過して武蔵野市・三鷹市・小金井市を経て国分寺市・立川市・八王子市、東京西部の多摩に山々を超えると山梨方面となる。


京王線だと高井戸が杉並区の南。というか、江戸時代は高井戸宿が当初は日本橋から最初の宿場町「江戸四宿(中山道の板橋・東海道の品川・奥州と日光街道の千住)」の大都市になるはずだったが、内藤新宿に移されてしまった。まあ、もとから甲州街道は交通量は少なかったが。
漫画でありがちの「ヤツは四天王のうち最弱だし」というか、甲州街道の交通量は五街道の江戸四宿のうち最弱のようだ。しかし、高松喜兵衛など浅草商人らが内藤新宿に移さなかったら、新宿は発展しなかったし高井戸が大都市になった…のか?
今の東京の都市間パワーバランスが変わったのだろうから、興味深いですね。

世田谷や練馬はよく仕事で赴いていたが、実はその間に杉並があった。杉並に職場がないのが、僕の中で杉並の存在感があまりなかったのは事実。
よく世田谷に行くときに使っていた小田急線の北に杉並があったのだ。
よく練馬や国分寺に行くときに使っていた西武線の南に杉並があったのだ。
中央線を使ったときに、あっという間に通り過ぎた荻窪・阿佐ヶ谷・高円寺が杉並だったのだ。

だから、僕の中で秘境だった杉並を今回の散歩に選んだ。
いや、ウソである。
単に、最近はまっている「各地の郷土資料館めぐり」の1環です。最初は豊島区の郷土資料館にしようかと思ったが(新宿は以前に記事にしたし、今度は池袋!ってノリだった)、来年まで閉館らしい。
しかも100円。安いぜ!!

新宿から丸ノ内線で中野を経て方南町。このすぐ近くに杉並郷土資料館。今日は方南町から中央線の高円寺まで歩いていくプラン。

郷土資料館へ。

門をくぐると、機織り機と蚕の籠がある小屋へ。群馬のように、東京郊外は養蚕業と製糸・絹織物など衣服や布などの繊維業が発達していたのか。
そこは、我が現在の居住地(西武の田舎)と同じだろう。

旧石器時代と縄文時代と弥生時代の杉並区の景色をイメージしたイラスト。旧石器時代は氷河期で、針葉樹が広がり、北海道やロシアのような感じか。縄文時代で温暖化が進み、広葉樹が広がり、落葉しますから、虫がえさとして食べ、それをえさにして動物が群がる。木の実も落ちる。食物連鎖が広がる。原始の春の訪れですかな。
弥生時代になると、稲作が始まり、稲は共同作業ですから、大きな集落ができ始める。

律令期の支配を経て、やがて平安時代後期から中世の戦乱期へ。
律令期のこの地域の様子はあまり資料からわからなかった。
そして、中世のころの関東の豪族というか、領主というか、武士団の分布は、勉強不足の僕の中ではとにかくカオス。
阿佐ヶ谷に城があった? 阿佐ヶ谷と名乗る武士がいた?
展示は、江戸氏の勢力が強かったような印象。

鎌倉時代には鎌倉街道が通っていたようだ。鎌倉街道は、僕の現住所からけっこう歩いたところ、狭山市に源頼朝のいとこの木曽義仲の子・義高が最期をとげた場所がある(義高の墓巡りは以前の記事にて)。

さらに、西武池袋線の小手指近くの小手指河原の戦い、そして分倍河原の戦いを経て、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞のルートでもある。
しかしどうやらこれは鎌倉街道の「上道」で、杉並区を通りしは「中道」だと思われる。

室町時代になると、室町幕府は関東支配のために鎌倉府を設置。
京都にある室町幕府に対して遠い関東を、足利尊氏が子の基氏(兄は2代将軍の義詮)を「鎌倉公方」として支配させた。
そのとき、足利氏の一門で最有力の武士・吉良家(のち徳川家に仕えたとき、赤穂浪士事件で討たれる)が世田谷城をつくり一帯を支配する。

高井戸の由来は「高いところにお堂があった」と言われ、お堂こと不動尊を守っていたのが「高井家」。この高井家は吉良家の子孫といわれる。
とまあ、いろいろ支配者について書いたが、どうもこのあたりの歴史はわからないところが多かったり、マニアックな世界になりそうだ。
庶民の暮らしとしてわかるのは、関東管領(鎌倉公方を補佐)上杉憲実の弟の文書にて、当時「堀内」「下荻窪」「泉村」に農家と田畑があったことだ。

江戸時代になると、新田開発が進む。また、同時に鷹狩を行う鷹場として、江戸城にホタルや鈴虫、杉の葉(燃やしたりして蚊除けに使う)や桃の葉(お風呂に入れて香りを楽しんだり、あせもや湿疹の対策)なども上納させた。江戸近郊の村は鷹場に指定され、江戸城にこういうものを送らせたらしい。以前云った品川の歴史資料館も鷹場御殿の展示があったが、御殿山とかもそうかな。

新田開発で多くの村々ができる。東京西部の「武蔵野台地」は、やせて養分が少ない赤土の火山灰地で、野菜作りがさかん。

農家の人は肥桶に野菜をかつぎ、それを江戸にまで売りに行き、売った金で長屋から人糞を、馬小屋から馬糞を買い、肥桶に入れて帰り、武蔵野台地の田畑を肥やした。
これは以前記事で書いた東京農業大学がある世田谷でも同じ。
また、新宿記事で書いた通り、内藤新宿は馬糞がいたるところにあり、それを農家の人がたくさん拾う。杉並も、新宿から伸びた青梅街道の、中野村の先だから、彼ら農民たちは新宿と高井戸宿などの清掃活動でも大いに活躍したのだろう。

高井戸宿の模型があったが、いたるところにトイレ!
世田谷散歩にも書いたが、旅はトイレの確保は重要課題なんです。

こういう民家が散在し、畑を耕し、それを江戸まで運び。
世田谷散歩のときと似ていたため、浦安の時のような大きなインパクトはなかったけど、農家の人々の様子が垣間見えたかも。
勉強不足なのか、わからないことが多いのか。杉並区は農業あり、戦乱あり、江戸時代には江戸の近郊農業地帯で、たくさんの村々ができ、特に大正時代末期の関東大震災で多くの人々が集中するベッドタウン地帯となったと、そういう歴史の流れが見て取れました。タイムトリップの旅、完了かな。

帰り道は、閑静な住宅街と、ところどころに見える自然。
和田堀公園や済美公園や松ノ木あたりを多少ウロウロしながら、高円寺駅を目指しました。
紅葉や銀杏(イチョウ)。秋ですねぃ。

この道も、秋の風情で大事にしたいものです。

いや、もう12月やがな!!!

ちなみに、杉並に偉大な芸術家・版画家の棟方志功が住んでいたらしく、特別展やってました。
また、与謝野晶子と鉄幹夫妻や、井伏鱒二もいたらしく。井伏鱒二の「荻窪風土記」などを読めば、もっと杉並史を楽しめるかも。
あと、個人的に、杉並区はA1picturesやUfotable、ボンズにサンライズなど名だたるアニメ制作会社が集中しており、杉並アニメーションミュージアム(荻窪駅からやや歩く)もアニメファンとして楽しめます。

手塚治虫先生ぽい。ハゲが嫌だからベレー帽被るとか、近視で食い入るように見るところとか。
都心副都心のベッドタウンの杉並は、アーティストたちも多く住んでるのかな。

昭和の民家も展示してた。

帰路、杉田玄白とともに初めて日本に本格的人体図「解体新書」を書いた前野良沢の墓が。
コロナや我が家族の病が、少しでも治まるよう祈る。


資料館からは、「多くの自然と住宅地」→「寺の集まり」→「商店街」→「駅」て感じ。

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