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新宿歴史博物館へ。新宿の聖地巡礼。

今や東京都庁もあり、日本最大の繁華街でもある新宿。
しかし、江戸時代まではただの田畑。
いやいや、東京、というか江戸自体も最初はただの湿地帯でしたから。
昔は日比谷まで海であり、東京駅のあたりまで海であり。徳川家康の関東入府により、家康は秀吉のつくった大阪のような都市建設を目指し、神田山を消滅させその土砂をもって日比谷入江をうめたてた。て簡単に書くけど途方もない工事だ。

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家康の工事前の海岸線が黒線。江戸は当時広大な湿地帯、想像するに山手線内はことごとく葦が生い茂り、各地に沼があり、すぐ海が見えたのだろう。江戸工事の不便さは、「井戸を掘っても海水しか出ない」だったらしい。

土地は変わりゆく。ただの空き地が大都市となり(横浜のように)、当時最大の大都市がのちに廃れる(敦賀とか?)。
私の生まれ故郷の某町も、もともとはただの山だったが、山肌を削り道路を通し住宅を建てて作られた。
歴史は100年もなく、ひたすらの開発ブームによりつくられ、高度経済成長とバブルの時期に栄えたが、いまや過疎化と高齢化により廃れ限界集落化しつつあり、僕は写真を集めようとしているのだが、ほとんど残されてない。見つけたのは、我が町ができる前の山であったころの1カットの写真のみ。しかし、我が町の歴史を思い描ける貴重な資料だ。

さて、それは置いておき、新宿。

もとは何もなき原野だったが、家康入府時の江戸の警護のために甲州街道に布陣した「信濃の国(今の長野県)高遠藩の内藤家」に、今の四谷~代々木~千駄ヶ谷~大久保にわたる広い敷地を家康は与える。

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多摩から関東山地を隔て甲府(山梨)にいたる江戸の入り口に内藤家は敷地を持つ。江戸の警備を買って出る。しかしその場所はやがて今のターミナル駅のごとき交通の要所として、人と荷物の集まる「宿場」となる。

そこがやがて「内藤新宿」となったのは、1697年の五代将軍綱吉のころ。浅草の高松喜兵衛が、甲州街道の宿場町であった高井戸が日本橋から遠く不便なため、日本橋-高井戸間に新しい宿場町をつくることを幕府に要求。
宿場町とは、日本橋からほどよい距離に置かれた宿を中心とした町。
歩き疲れた旅人を休め、さらに荷物を江戸に輸送するための中継基地ともなる場所。
日本橋から甲州街道沿いに約二里半(8km)の場所を宿場に、それが内藤家の敷地内。高松喜兵衛は幕府に膨大な資金を送り達成させた。よほど高井戸が輸送的に不便で、この土地が発展の見込みがあったのか。
その「新しい宿場町」として選ばれたのが、新宿こと「内藤新宿」である。幕府は内藤家の敷地の一部を返上させ、この町を開放し商人たちは町づくりをはじめる。
宿、飯屋、茶屋。さらには茶屋女や飯盛女などの岡場所としても、江戸の行楽地として発展していく。
遊郭や岡場所など風俗地は繁華街として流行るものだ。

さて、新宿歴史博物館。最寄りは都営地下鉄新宿線の曙橋が近いか、四谷と新宿の間にある。
撮影場所は、やはりメインである「内藤新宿」の宿場町の模型。

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今の新宿御苑がまさに内藤新宿の位置。
隣を流れるは玉川上水。青梅市近くの羽村の多摩川から取水し、40kmの四谷まで水道として流す。高低差たったの90mだ。井戸を掘っても塩水しか出ない江戸へ、必要な生活用水を送る。
ちなみに、甲州街道は中央線のイメージだ。
新宿から上りは江戸、下りは多摩と山梨方面。

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四谷大木戸方面と現在の対比。

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当時の四谷大木戸から眺めた内藤新宿の町の様子。四谷大木戸は内藤新宿の入り口でもあり水道の中継点でもあるようだ。この入り口の手前が四谷と江戸城方面。奥が新宿駅と中野と多摩方面。江戸時代の水道は地下に水道管を通し、町の井戸へ通すしくみ。ここから玉川上水もやがて地下に通るのだろうか。よくわからんが。

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実際の大木戸あとに行ってみた。四谷の新宿歴史博物館から新宿駅に向かう道に、四谷大木戸と御苑がある。

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この通りが内藤新宿のあたり。

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再度、模型へ。大木戸から入りしばらくすると町の出口に。これが追分。甲州街道と青梅街道の分岐だ。
馬を追分けるから追分といい、新宿三丁目、伊勢丹あたり。新宿駅東口から、左手にアルタ、紀伊国屋書店、伊勢丹へ。右手にマルイ、先に映画館のバルトに世界堂。近くに四谷署追分交番、追分団子。実は人々の旅の別れ道。

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突然ですが、馬のお尻のアップ絵です。

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歌川広重の「内藤新宿」の絵。
馬のお尻から宿場を眺める素敵な構図。
道にたくさん落ちる馬糞は、野菜を売りに来た農家たちの大事な肥料に。

内藤新宿の脇は、畑が広がっていたらしい。
運がいいことに、新宿歴史博物館の入り口に内藤新宿の様子を描いた屏風が展示されていて、ギャラリートークも聞けた。
(屏風を作った江戸文化研究家で東京造形大学非常勤講師の善養寺ススム先生のお話はとても楽しかった!
著書「江戸の用語辞典」興味あります!)
それによれば、甲州街道は幕府の直轄地である甲府を結ぶため、あまり大名は使わない。そのため新宿には大名の宿である「本陣」が無いのは目から鱗。内藤新宿は庶民の町として発達し、周辺の農村や、だだっ広い内藤家の敷地を借りて野菜を作る農家からの青物を売っていた。新宿名物の農産品は、唐辛子くらいしか新宿歴史博物館は紹介されず分からない点も多いが、内藤家や、前回僕が書いた散歩記事にある世田谷の農村から、いろんな野菜が運ばれて売られていたようだ。

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明治時代になると、新宿は没落。
武家屋敷の廃止、交通の変化により人が離れてゆく。

もともと江戸最大の繁華街は浅草で、ここに芝居小屋などが立ち並び、隅田川の水運や船遊び、両国橋での花火見物、隅田川は桜の名所でもあれば火事避難場所の火よけ地として普段は屋台などが並んでいる。吉原遊郭にも近い。
吉原と浅草の散歩記事も書いたが、また改めて「江戸東京博物館」を見学した記事として、再度浅草など下町について書きたい。

つまり、内藤新宿は確かに繁華街なのだが、その先の青梅街道は風光明媚な里。

ホタルが飛び交い、淀橋には水車もある。
成子天神を氏神にした町。多くの文人など観光客が、自然を楽しむ場所だった。
新宿西口と東口を結ぶいわゆるガード下、西武新宿駅前の通りから中野方面に歩く。

歩いたことあるし、成子天神は参拝したことあるが、今度写真を撮ってきますから、ちょっと待っててね。

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淀橋は中野村に向かう道にある。1960年に東京新宿区淀橋に「淀橋写真商会」ができ、それが「新宿西口駅の前♪」のCMで有名なヨドバシカメラとなる。
明治時代に淀橋周辺に玉川上水の水質改善(ゴミや動物や人の糞尿や遺体)のため巨大な淀橋浄水場ができる。
1960年代に廃止となり、浄水場以外はまばらな人家や学校しかない新宿西口の大工事が始まり、都庁が移転、新宿副都心となっている。

さて、最後に話を新宿の歴史に戻そう。
つまり、新宿、明治期はただの人家閑散としたほとんど野っ原になった。

1885年に今の山手線である日本鉄道品川線の新宿駅が、内藤新宿(当時は政府が買い取り、海外の動植物試験場を経て1879年に新宿植物御苑に)の西の外れの角筈にできる。
ただし、一日の乗降客数が50人(現在は350万人、世界一であり、日本二位の人口の横浜の総人口と同じ)。
当時の鉄道料金が高く(今で言えば新幹線に乗る感じ?)誰もこんな辺鄙な新宿に来なかった。

新宿を大都市として発達させたのは、関東大震災だ。
震災で東京(江戸城=皇居)中心から東部(浅草や銀座などの繁華街)は壊滅。
しかし、東京西部(新宿・渋谷・池袋から多摩や埼玉方面)は山の手台地から武蔵野台地は地盤が強く、人の郊外への移動が始まる。
特に新宿の落合に目白文化村ができ、昼は都心へ働きに、夜は郊外で家族とともにというスタイルが流行る。
やがて新宿駅は中央線で、東京西部と東京中心の中継点として重視され、新宿駅周辺に人が集まり、東京有数の繁華街へ。
伊勢丹などのデパートや、中村屋のカリー、高野フルーツパーラー、カフェやムーラン・ルージュなどの画期的劇場など文化の発信地にもなる。

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目白文化村の住居。

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東京は70年代まで路面電車が日本一の多さで、東口から歌舞伎町方面に線路があった。

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二幸商店→アルタ

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現在のアルタと、後ろの新宿駅東口。

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中村屋。新宿中央通りは、新宿第二フェーズ(第一=内藤新宿、第二=関東大震災後、第三=高度成長期以後の新宿副都心化)の象徴。

やがて、太平洋戦争の東京大空襲で新宿は大被害を受けるが、東京中心部や下町の浅草ほどではなかった。隅田川には数万の人々が火災から逃げて3月の冷たい水に飛び込んで溺死した。震災と空襲の被災者を祀っているのが、江戸東京博物館の近くの東京都慰霊堂だ。僕のたばこと塩の博物館の記事にも触れている。

空襲で焼けた新宿には闇市が立ち並ぶ。その名残りがガード下と新宿駅を結ぶ通りにある思い出横丁。
何より、新宿に人を集めたのが歌舞伎町だ。
もとは戦後に、のち歌舞伎町ができる角筈地区区長の鈴木喜兵衛が歌舞伎町を浅草のような劇場や歌舞伎座を立ち並べた繁華街を目指す。
歌舞伎町は、新宿駅と御苑周辺の中心から靖国通りを隔てやや離れ、都バスの車庫以外は鬱蒼とした森や鴨狩場。
やがて鈴木喜兵衛が都バス車庫を移し西武新宿駅をつくらせ、のちHUMAXを作る台湾人の林以文や東急が参加し、多くの映画館や劇場ができる。
ミラノ座、コマ劇場、歌舞伎町は東京の映画の町だった。
しかし、風俗街になったのが、伊勢丹にGHQが置かれ、アメリカ進駐軍を相手に性風俗店を作る場所として、新宿中心から離れた歌舞伎町に決まる。

ここから歌舞伎町にはそういう店が増え、その筋の人が増えていく。
しかし、石原慎太郎都知事の浄化作戦により、かつてほどの危険さよりマシになる。
性風俗店の減少、歌舞伎町に鳴り響くキャッチ=違法の放送、歌舞伎町交番による徹底的なパトロール、いたるところの防犯カメラの設置。
確かに、この辺りのサウナをよく使う僕にとり、サウナの客層の九割はホストか刺青を入れた人なので普通は怖いのだろう。しかし、店員のしっかりした管理で安心できる。

コロナ禍でいたる店が潰れた。ゲームセンターのプレイランドカーニバルなど。
しかしコマ劇場あとには巨大なゴジラがランドマークになっているTOHOシネマズ、さらにミラノ座があった場所は現在、超高層商業施設も作られている。

100年後の新宿も、また変わることだろう。

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