日本人あすなろ物語

 欧米に比べて日本は、この二十年、経済が停滞してゐる。
 給料が全然上がらない、これは先進国の中だけで日本だけだと、神谷宗幣氏や山本太郎氏も嘆いてゐる。
 
 欧米の経済成長は、旧植民地に対する経済的搾取が続いてゐることと、アフリカの各地で続く戦争や紛争が続いてゐることのおかげだ。

 旧植民地に対するヨーロッパ人やアメリカ人の巧妙な経済的搾取に関しては、日本もさういった植民地のひとつであるから、とくに説明しなくても、自分たちの生活を振りかへればかわることだ。
 たとへば、わたしたちは英語が話せるようになりたくてたまらない。英語が話せないからダメだ、ディベートできない、非論理的だ、理性が無い、国際感覚に欠ける、自己が無い、と思ってゐる。

 さういふ痛切な思ひは、日本が米語を話す国の植民地だからだ。
 黄色い・アジアのサルではなく、金髪碧眼長身の・欧州の白人になりたいといふのが、明治の文明開化以来の日本人の悲願である。

 今、英語が母国語ではないのに、学校教育の言語として、また経済活動で用ゐられる言語として英語を使ってゐる(非欧米系の)国や民族にはどんなものがあり、それらの国や民族は欧米とどんな経済的な関係を結んでどんな文化を形成してゐるかを考へてみれば、それらの諸国や民族が、自ら進んで未だにヨーロッパやアメリカの植民地となってゐることがわかるだらう。

 さて、
 では、アフリカはどうして、まんまとヨーロッパ人たちの思惑どほり、戦争や紛争を続けて互ひに殺し合ひ、子供たちを兵士にし、女性たちをレイプし続けてゐるのだらうか?
 結論を言ってしまへば、相互の信頼が無いからだ。

 アフリカとヨーロッパ人との関係は、奴隷貿易から始まった。
 この奴隷貿易を考案したのはヨーロッパ人だが、推進したのはアフリカの諸民族である。
 アフリカ人が奴隷貿易をしなければ、アフリカ人はアメリカやイギリスの奴隷として働かされることはなかった。奴隷貿易に関しては、「わるいのはヨーロッパ人」といふことで片づけるのは無理だ。
 だからこそ、根深い憎悪と不信がアフリカの諸民族の間に再生産されつづけてゐるのだ。

 アフリカの諸民族は、端的に言へば、互ひの利益のために互ひを損なひあふ民族である。
 これは、特に、アフリカの諸民族に限ったことではない。ヨーロッパ人でも中国人でも、さういふものだ。
 地球上のほとんどの民族は、それぞれ自分たちの民族の利益のために、互ひに、騙し合ひ、戦ひ、対立してゐる。
 日本人は、世界の諸民族とは、互ひに信頼し、助け合ひ、仲良くするのが当たり前だと思ってゐるが、そんなふうに信じ込んでゐるのは日本民族だけだ。

 いはゆる「国際社会」では、互ひに信頼し、助け合ひ、仲良くするといふことを看板に掲げるが、それは、現実には、騙し合ひ、戦ひ、対立してゐるからだ。
 日本の国内で日の丸を掲げて行進するのがバカげてゐるやうに、日本人同士が、とくに声に出して「お互ひに信頼し合って暮らしませう」と火の用心のやうに呼びかけて歩いてみたところで、意味はない。
 日本人は、基本的に、相手を信頼して生きてゐる。

 握手しながら、こいつをどう騙そうか、こいつはおれをどう騙そうとしてくるかなと(無意識に)考へるのが人間関係のデフォルトとなってゐる英語話者とは、生きてゐる世界が違ふ。

 握手の起源が、お互ひに左右の両手を取り合って、互ひに腰に吊るした剣による不意打ちを封じるためだといふ話。
 ほんまかウソか知らんけど、この話、伏し目になって頭を下げて相手にしたら“どたまをかち割れる“姿勢になって好意を示す日本人との違ひに、思ひをはせるきっかけにできる。

 進化人類学によると、アフリカ大陸を発祥の地とするホモサピエンスは、地球上に広がってゆき、各地の風土に適応した「人種」となりながら、最終的には、日本列島や東南アジアの島々に到達したさうだ。

 地図で見ると、日本列島は、数万年にわたる人類の彷徨の、最終地点にある。
 実際、さまざまな民族や人種が日本列島に渡ってきたのだそうだ。
 さうして、さまざまな民族や人種が日本列島に入ってくると、それらの民族や人種は対立して戦争を繰り返すこともなく、一万年くらゐの間平和に暮らして、大陸からの侵略民族によって激動する弥生時代を迎へることになったらしい。
 それでも、その後も、対立と戦争の繰り返しといふことにはならず、大王をいただくクニとしておさまった。そして、今では、日本民族と呼ばれるものとなった。

 日本の国は、単一の言語と単一の民族から成る。・・・と言ふと、最近はミギ寄りの人からもたしなめられることがある。
 「古来より日本は多文化共生社会なんですよ。ダイバーシティなんです」
と言われたりする。
 確かに、遺伝子などを調べると、たくさんの民族が混じってゐるのだそうで、日本語がどこの語族のものか得体が知れないのも、たくさんの民族の言語が混じって混じって、出来上がったものだからかもしれない。

 それにしても、そんな「ダイバーシティ」が可能になったのはなぜか?
 それは、日本列島の中に引き籠って暮らしてゐる限り、どの民族も人種も、互ひに信頼しても安全だったからだ。


 この信頼関係も、そろそろ終はりである。
 日本もようやく欧米を見習って、精神的にも、先進国の仲間入りをしようと努め出した。
 みんなでマスクをしてゐることに対して怒りと軽蔑を示し続ける人たちがゐる。日本人は英語ができないと涙を流さんばかりに嘆いてゐる人たちがゐる。
 さういふ人たちは、日本人が個人主義となり、自分の自由が一番大切だと信じるやうになり、他人がどう思ふかより自分の意思や感情を優先するうになれば満足するのだらうか?
 そのとき、日本が、どんな社会になるかがわかってゐるのだらうか?
  
 それがどんな社会であるとしても、明治維新以来、とにかくヨーロッパやアメリカといふものを目指して日本人は、なんとか文明開化した、福沢諭吉のいふところの独立人にならうならうと努力し続けてゐる。

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