僕がプロベーシストになった道のり(中編)
高3の夏
ある朝にベースを弾こうと決めてからはベース一本。ベース道まっしぐら。
その頃にプロミュージシャンになろうと。というか、なりたいという夢に。実家が自営業の為、家業を継ぐつもりでしたが、急に気が変わって(笑)
親父はびっくりだったようですが(後日談、だいぶ経ってから色々飲みながら話すので)全く何の反対も無く、専門学校に行くことも、家を出て独り暮らしも。この辺は本当に感謝です。
実家は今も福岡と大分の県境で自動車整備工場を運営してます。車に関してはプロフェッショナル!職人です。近隣の方がいたら板金、修理などご相談ください^^
プロになりたいと思ってから、おそらく直ぐに専門学校の体験入学へ。
そこで恩師の一人である西本圭介さんに出会いました。在学中、卒業後、そして現在に至るまでお世話になっています。だいぶ前ですが広島でクリニックも出来たのも西本さんのおかげで。
この体験入学、そして恩師との出会いがプロになってやると言う気持ちがさらに高まりました。
ベースを初めて直ぐに体験レッスンという短い時間ですが、ちゃんと習ったと言う事が大きかったです。その頃はインターネットもありません。情報は雑誌と周りの人がメイン。その中で確かなテクニックや基礎を学ぶのは困難。。
何校か体験レッスンに行きましたが、最初のインパクトが強く、学校も即決。高3の残りはベースを練習するのみとなりました。
勉強しなかったな・・・
上福?
同じ福岡県ですが田舎すぎて福岡人が知らないこともしばしば。
位置関係はこんな感じ。真逆ですからね。しかも基本北九州経由。
福岡で一人暮らしが始まり、学生生活もスタート!
ここではもう練習の鬼と化して。ほとんど遊んだりする事なく、ひたすら練習に打ち込む日々。弾きたかったし、上手くなりたかったし、楽しかった。
理由はシンプルにそれだけ。ちょっと弾ければ、周りからいい気になりやがって、的な事もありつつ、そう言うのは無視(笑)気にしない。
上しか見てなく、よく同級生がどうとか、先輩がどうとか。
そういう狭い視野での出来事は全く頭になかったので、身近だと習っている先生たちにまずは近づく。
周りと一緒にぬるま湯に浸かっていたら、まぁ自然と安心しますよね。マヒするというか。
でも一歩出たら別世界。余裕なんて全くなし、みたいな。
そんな意識は昔からずっと。孤高な感じだったかもしれない
でも、今でも連絡取り合って仲良しなのは専門学校時代の友達が多いかな。同じ目標に向かって一緒に練習したり、バンドやったりと。昔話になると、本当に馬鹿みたいに練習しかしてなかったよな!と突っ込まれます。それで今があるのでよし(笑
本当に当時は面白い学校で、西本さんはメタル、速弾き、ダグさんというアメリカ人の先生にR&Bや読譜の授業、マークキングのスラップなど。
ダグさんの動画置いておきます。TUNEのベースが懐かしい^^コード系の得意でしたね。丁寧で整ったプレイはダグさんの影響が強いです。
続いてダン・ハートさん。
ダンは黒人ベーシスト。体格も良く、ブルドーザー的でマシンガン的な演奏(笑)とりあえず理論とかでなく感覚で演奏して感じ。ソロを弾きだすとベースの音より声がデカい!目の前でこの強烈なグルーブを体感してました。ダンかっこよかったな。
この写真は2008年に福岡に仕事で戻った時に、別日でセッションをした様子。ダンが遊びに来てツインベースバトルをしたはず。強力!
ジャズに関しては丹羽肇さん。ジャズの理論的な事やコントラバスを習いました。またレッスン受けたいです^^
2年間、個性あふれる先生方に師事し色々な知識を身につけました。
当時好きでよく演奏していた曲をその当時のバンドメンバーや、学校は別だけど、同じ様な道を通ってきた仲間とMR.BIGを
卒業
卒業後はそのまま、研究課程という事で授業のお手伝いをしたり、少し教えたりと。この辺りから学校の紹介とかで学外での演奏の仕事が始まりました。
イベントや式典での演奏など。BGMやファンファーレ的なものです。
これが20歳の頃なので、お金をいただくと言う点ではこの辺がプロベーシストとしてのスタートかな。
こういった、学生半分、先生半分的な一年を過ごした20歳。
3年間やってきた事が認められたと言うこともあり、次の年は完全に先生として学校に残りました。と言っても少し基礎を中心に教える程度。
キャリアも経験もない訳だし、今考えると恐ろしい(笑)何を教えてたんだろうか。。
学外ではジャズを習いつつ、ジャズのセッションに参加するようになりました。譜面もほぼ読めない状態で飛び込んで、恥をかき、凹む。
これの繰り返し。
そうすることで、初見でも何とかジャズスタンダードの譜面が追えるようになっていきました。ソロも回ってくるし、本当に大変。。恥だらけ(笑
恥をかいた分だけ成長したのも確か!
後、エレキベースでジャズを弾いていると、エレベはジャズじゃ無い!と言われたり、下手なウッド弾いていると、僕の楽器を勝手に弾いて見せびらかす人(笑)という露骨な嫌がらせもありつつ。ジャズスタンダードって、もっと自由に気軽にできるもんじゃ無いのかな?という思いもその頃から。。
学校外では営業の仕事。イベント、結婚式場、パーティーなどが主。内容はジャズスタンダードが主。その場に行って譜面を貰って演奏する、割と緩い感じ。
後は、中洲のハコバンに先輩の代理で入ったりする仕事も。そこは勉強になりました。冷や汗かきながらも楽しかった記憶があります。
思い出深いのは九州YAMAHAの仕事。
その当時は福岡市の西新にYAMAHAのレコーディングスタジオがあり、そこでTEENS' MUSIC FESTIVALの優勝者や、賞を貰った人のレコーディングを行っていました。後は関東のレーベルに売り込むためのデモ音源作り。
ここでソロアーティストの音源をレコーディングしていましたね。TEENS'は各会場でYAMAHAで育成されている人がゲストライブを行うという事も結構あったので、それで九州ツアーをしたり、そのアーティストのプレゼンで東京に来たりもしてました。
各都市でこのような仕事が潤沢にあると、東京一極集中はなくなると思うのですが、難しいですね、、
この感じがざっと21歳〜24歳の出来事。
そして2004年、24歳の冬。
その日まで、東京に行くと言う考えはうっすらしかなく、先々行ければなぁくらいの気持ちでした。。
そんな時、とある方と飲んで話す機会があり、その方に言われた一言。
そこでのその一言で上京を決意
「東京来ないと始まらないよ」
翌日、この気持ちを変えない様に、お世話になっている人、仕事を振ってくれる人などに、来年4月に東京に行きます(3月まで学校で授業があったので)とメールをしました。これで撤回できない!
これで福岡に残ってたら「何でおると?東京行ったっちゃないと?」と言われますからね。
3月までの仕事はやり切って、4月からは上京準備。
天神で日雇い派遣バイトしながら(笑
次は後編。いざ東京。
引き続きオンラインベースレッスンもよろしくお願いいたします^^
皆さんが楽しめる様な物、有意義な物を制作していきたいと思っています。