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SLEの私が50回目の秋を迎えて

人生で50回目の秋

 四季の中で秋が好き。その次が春。
 もう近年は秋も春も短くて、夏のような秋だったり、「涼しくなったな~」と思ったら冬に突入してしまったり、日本から春夏秋冬の概念が薄れているような気がする。
 それでも黄昏時の秋、黄金色の稲が風に揺れる秋、木の葉が色づく秋が好き。台風が大変な状況をもたらすこともあるのも秋。
 50歳になって迎えている秋は、余裕がなく、自然の移り変わりを愛でる時間ももてていない。だからだろうか、ゆっくりと時間が流れていた頃を懐かしく思う。33歳の誕生日を9月に病院で迎え、その後退院となった。いろんな焦りの中にあったはずなのに、読み返してみると豊かな時間が流れていたことを知る。
 秋にまつわるエッセイをいくつか書いていて、「金木犀の香り」もその1つ。今回は「金木犀の香り」より1年前に書いたエッセイを届けたい。

「再入院後の秋を迎えて」

                         2007年10月
 病院を退院してから、6週間。私は自宅で療養している。朝は薬の作用もあってか、正午近くまで横になっていることが多い。私の病気の悪化は、2003年の秋の睡眠障害から始まった。そしてうつのようになってしまった。よくなってきたと思った頃、2004 年の夏には躁に。3カ月余り入院をしていた。そしてまた、躁になり入院。前回も今回もSLEの精神症状を出した。しかし、今回の入院も前回同様、学ぶべきものが大きかった。

 退院後、家では、家事を手伝ったり、読書をしたり、テレビを見たり、手紙を書いたり、散歩をしたりしている。こうして書き記してみると、入院時に比べると「~たり」が多くなったのが、良く分かる。欲張りな私は「~たり」を1つでも多くしようとしているのかもしれない。身体にいいことを、と思い、玄米を最近は食べている。それから、座禅やヨガ、気功などにも興味を持ち直している。その上、来月からはお茶や着付けを習い直そうとしているのだから、欲深い人間だ。余分なものを削ぎ落としていかなければ、と思う。

 最近、日射が少ない日を選んで公園まで散歩に出かけている。先日の日曜日は、自転車で水城公園まで足を伸ばした。自転車を止め、しばらく歩いていると人の塊をみつけたので自然と導かれ歩いていく。公園に入ると、金木犀の香りが漂ってくる。金木犀といえば、一度目の精神科への入院を思い出す。銀木犀が病棟前の西の一公園の中にあった。Kさんと会ったのもあの公園だった。乳がんの再発の検査で肺に影があるため入院中のKさんは大きな不安を抱えていた。そして私は躁で、気分が高揚し、前向きだった。だからであろうが、Kさんにとって私の存在は励みになっていたのだと思う。退院後、一緒に彼女が住んでいる秩父の芝桜を見にいった。しかし、去年の秋、Kさんは遠くへ逝ってしまった。私はまだ、彼女の墓前に立っていない。金木犀の香りは、そんなKさんとの思い出を思い起こさせる。

金木犀

 金木犀は銀木犀の変種で17世紀頃に渡来したそうだ。大気汚染や潮風にも強く、刈り込みにも耐え、日陰でもよく育つとある。そんな金木犀の強さが欲しい。先日の外来の時には、西の一公園には寄らずに、日高のまんじゅしゃげを見に行った。ちょっとした行楽気分である。外来では先生に、何事も6割程度にと言われていた。

 日高のまんじゅしゃげの花がとても綺麗なことを母がラジオで聞き、S大学病院から近いこともあり、しきりに見たいとつぶやいていた。外来後に日高を訪れると、まんじゅしゃげの盛りは過ぎていたが、赤い絨毯がしっかりとあった。そして、そこの入り口にも金木犀はしっかりと根を張り、充分に存在感があった。

庭裏に咲いた曼珠沙華

 日曜日の公園。金木犀の香りが薄らいでくると、今度は鼻を突くような臭いがしてくる。そして、そこに人だまりがあった。なにやら実を拾っているらしい。注目を浴びているのは、イチョウの木から落ちる銀杏であった。イチョウの木の上から、たくさんの銀杏が落ちてくる。木の上からは人の声が聞こえてくる。どうやらイチョウの木の上に誰かが上り、実を落としているらしい。どうしても木登りの主の正体が知りたくなる。そうだ、私も銀杏を取って家に持って帰ろう。手ぶらで来てしまった私には実を入れる袋が無い。思案した末、自転車の籠の中に入れて持って帰ろうという結論に至り、自転車を取りに行くことにする。

 戻ってくると木の上からするすると1人の少年が木の上から降りてきた。どうやら中学生らしい。声をかけてみると、私の母校である中学校の1年生で、私と同じ陸上部の少年だった。私はなんともいえぬ感動を覚えた。ネット社会の世の中で、外で遊ぶことが少なくなった子どもたちが多い中、木の上に上って大人たちのために銀杏を突っつく。昔ならばこんな光景があったのかもしれない。しかし、今は心を痛めるような事件が次々と起きている。その少年は、下で銀杏を拾っている大人たちと親しそうに話をしていた。顔見知りの仲間なのだろう。

銀杏の実がなっている


 その後、拾った銀杏はきれいに皮を剥き、実を干した。たまたま市役所に勤めていた隣の親類のお姉さんが枝豆をおそそわけにきてくれた。その際、水城公園に行き、銀杏をとってきた話をすると公園内のものを勝手にとったりすると苦情の電話がかかってくるという話をしてくれた。なるほどそれも一理ある。しかし、わたしの心の中には、罪悪感はほとんどなく、あの少年の存在がなんとも私に幸福感を与えてくれていた。

 後日、近くの総合公園へ散歩に行くと、幼児が2人で虫をとっている様子が目に入る。何をとっているのかを聞くと、虫ではなく、どんぐりをとっているという。コナラの木であろうか。まだ、年中さんくらいの年である。私にもこのくらいの年の子どもがいてもおかしくない。一緒にどんぐり拾いをする。「お母さんは? 」と聞くと2人とも遊具がある公園にいるという。物騒な世の中になり、子どもだけで遊ばせおくわけにはいかないのだろう。
自分の人生を考える。もう、33歳。また、大好きな秋を迎えた。

吹上のコスモス

秋を楽しむ

 6日の日曜日は地区の体育祭だった。地区の班長でもあり、体育祭に参加。競技には姪2人が出場してくれた。あいにく、雨に降られたが、小中学時代の同級生も来ていて、いろいろ話した。小学生の頃は運動会が楽しみで仕方なかった。
 去年の秋は、裏の元畑を活かすためにコミュニティスペース「ゆるのりスペース」展開を計画し、仲間と共に畑に着手したのだった。明日はゆるのりスペースを生み出すきっかけとなった講座の主催者のお手伝いで、2歳のお子さんと過ごすことになっている。9月に3歳になったばかりの3番目の姪は体調を崩している。それに付き合う妹も大変だ。そういえば、17年前も親御さんが公園でお子さんの見守りをしていたな。誰かの親ではないけれど、多くの子どもにかかわれる環境にいることで学ぶことも多い。明日は秋ならではの遊びをすることにしよう。
 明日は朝が早いので、明日の分を公開したい。


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