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子どもに作文を書いてほしいときに必要なこと ~「思い出せない」編~

「作文が書けない」と言っても、そこにはいろいろな原因がある。
集中力が続かない・自信がない・言葉が出てこない……。
書かせたい方は焦るものだから、いろいろ聞き出そうとするのだけれど、聞けば聞くほど子どもは混乱していく。

「作文が苦手」という子どものたちの言葉の裏には、こうしたよくない関わり方の積み重ねがあることが多い。
子どもに作文を書いてもらいたいという時は、その子が何に「しんどさ」を感じているのかを、まずはつかむことが必要となる。
今回は、もっとも多い「しんどさ」であろう「思い出せない」という原因と、サポートについて考えてみたい。



思い出せないことは、思い出せない

「覚えていることを書く」という前提が、そもそもの間違い

学校では、「運動会の思い出」「遠足の思い出」など、いろいろなテーマの作文課題を与えられる。
書くのはたいてい何日かたった後で、「もう細かいことなんて覚えてないよ」となってしまう。
特に低学年の子どもたちは、「今・ここ」を生きているから、その日にあったことを詳しく思い出すのも難しかったりする。

それでも原稿用紙を前にして、子どもたちはなんとか思い出そうと頭をひねる。
「ああ、朝起きたなー。それからご飯を食べて、学校に行った。それで、校庭にならんで、校長先生の話を聞いたっけ……」という具合に浮かんでくるできごとを原稿用紙に書き連ねていくと、「朝起きて、ごはんを食べて、学校に行ったら、校庭にならんで……」という、できごとがつながっているだけの作文になってしまう。
もちろん、こうした文章がとても大切になる時期もあるのだけれど、学校で求められる内容とは違うことが多い。
それでつい、「もっと詳しく書いて」なんて言うと、「覚えてないよ!」と言い返されてしまう。

ただ、よく考えれば、おとなだって、数日たったらいろいろなことを忘れてしまう。
きのうの昼ご飯だって、すぐには出てこない。
これは人間だから当たり前ことだ。
だからそもそも、「覚えていることを書く」という前提が間違いなのだ。


思い出せないのではなく、イメージできない

記憶はつくられる

特殊な例はのぞくけれど、私たちは見たもの・感じたことを、生の形のまま記憶に保存するわけではない。
いかに鮮明に思い出したと感じるものでも、実はかなり変容している。
たとえば、アメリカの学生を対象にした研究で、73%の学生が、1機目のジェット機がビルに突っ込んだ映像を見たことがあると証言しているが、実際には、そのような映像は残っていない。
残っているのは、2機目の映像である。
つまり、間違った記憶が作られたのだ(Pezdek, 2003)。
何かを思い出そうとするとき、私たちの頭の中では、保存された記憶が勝手に再生されるのではない。
記憶している手かがりを元に、その時のことを再構成すると言ったほうが正しい。
だから、思い出すというのは、ある意味、創造をともなう作業なのだ。

一緒にイメージをつくってあげる

原稿用紙を前にして「思い出せない~」と苦しんでいる子どもは、「思い出せない」のではない。
記憶を元にしたイメージが作れないのだ。

このイメージをつくる・操作するといった力の源はとても深いところにあり、人によって向き不向きがあったりする。
リアリティをもって瞬時にイメージができる人もいれば、イメージを立ち上げるのに時間がかかる人もいる。
また、視覚と聴覚など、得意なルートもある。

作文に話をもどすと、「思い出せない」というときは、イメージが作れないことが多い。
私達がするべきなのは、子どもたちに「思い出す」ようせまるのではなく、一緒にイメージをつくってあげることなのだ。


イメージをつくるステップ

その1「環境を整える」

イメージをつくるには、少なくともリラックスする必要がある。
だから、まずは「大丈夫」と言ってあげよう。
そして、原稿用紙はいったんしまってほしい。テレビを消して、できるだけ静かな環境を整えよう。


その2「会話をする」

原稿用紙には書けないけれど、会話だと、いろいろなことを話してくれる子は多い。
たいてい、最も印象に残ったことを話してくれる。
聞き手は、その言葉一つ一つに、関心と共感を示してほしい。
なかなか話の全容が見えてこなくても、余計な口を挟まずに、まずは目の前の子が語る一つ一つの言葉に寄り添ってほしい。

この時点で「物語」の構造が見えてくれば嬉しい。
「物語」の構造とは、簡単に言ってしまえば、最初の状態が、クライマックスをへて、変化するという流れだ。
友達と気まずくなったけど(最初の状態)、帰り道で謝って(クライマックス)、以前よりも仲良くなった(変化)とか、山道にうんざりしていた(最初の状態)けど、山頂にたどり着いて達成感を得て(クライマックス)、山が好きになった(変化)とか。
物語の構造があれば、作文では、できごとの展開にしたがって、場面を書き進めていけばよい。

もっとも、この時点で自分を一つの流れの中で捉えられる子は、かなり言語能力が高い子だと考えられる。
多くの子は、もっと断片的だ。
だから、会話から、できごとの「どの場面を書くか」をまずはつかんでほしい。
それができれば、作文では、その場面のことをできるだけ詳しく書いてほしい。
詳しく書けば書くほど、リアリティのあるよい作文になる。
そして、リアリティは、リアルなイメージから生まれる。


その3「一緒にイメージをつくる」

場面が決まったら、「一緒に思い浮かべてみよう」と声をかけ、イメージをつくるための質問をしていこう。

「目をつぶって、その時のことを思い浮かべてみよう。今、どこにいる?」
「んー、校庭」
「天気は?」
「なんか、ほんのちょっと、雨がポツポツふってた」
「暑い? 寒い?」
「ちょっと肌寒い」
「なにが聞こえる?」
「んー、徒競走の音楽がなってる。あと、応援する人の声」
「何が見える?」
「前の組の子が並んでる。これから走り出すところ」
「どんな気持ち?」
「みんなに見られてる気がして恥ずかしい。緊張する」

尋問のようになると、イメージは広がらない。
「聞く人」と「答える人」にならないように、聞き手もイメージをつくり、それを共有することが大切だ。
驚きや納得などのリアクションを返しながら、一緒にイメージの世界を楽しんでほしい。
五感に注目した質問は、リアリティを引き出す効果がある。
そして、イメージをふくらませながら、出てくる言葉をメモしてあげてほしい。
これは、後で大きな力となる。

さて、イメージができて、原稿用紙に書けるようになるかというと、そうはいかない。
鉛筆を持ったとたん、先ほどまでの楽しそうな表情はなくなり、何の言葉も出てこなくなってしまう。
「さっき言ってたことを書けばいいんだよ」と言っても、出てくるのは断片的な言葉ばかり。
イメージを保ちながら・それを言葉にして・原稿用紙の升目に文字を書くというのは、子どもたちにとって、それほど大変なことなのだ。
こうした時、同じイメージを共有していることが、とても大切だ。

出来事の描写は、基本的に周辺から中心へ向かっていくから、「いつ・どこで・だれが・どうした」の文から始まり、その日の天候や場所のこと、周りの人の様子、聞こえてくる音、周りの人の動き、自分の心の中、その後の展開と、イメージの世界を誘導していくことができる。
イメージのメモがあれば、表現の手がかりになる。


使えるものはなんでも使おう

ここまでを見て、「そんな余裕はないよ」という人も多いだろう。
言語技術の教室ならいざしらず、忙しい生活の中で、作文課題に何時間もつきあうというのは、なかなか大変だ。そんな時は、便利な道具を使おう。
たとえば、運動会や遠足など、その時の写真や映像があれば、それを見て書いてもいい。
あるいは、インターネットで調べたり、Googleのストリートビューで同じ場所をたどってみたりして、記憶を活性化させてもいい。
教室でも、3,000円くらいのデジタルトイカメラを生徒に渡して、日々の生活の断片を撮ってきてもらうことがある。
写っている画像を一緒に見て、写っているものの説明や、その時に感じた感覚・気持ちを言葉にする練習をしている。
自分しか知らないことを伝える時、いきなり言葉にできなくても、写真があれば共有できるから、便利だ。


さいごに

協同作業としての作文

作文を書くというと、一人で作文用紙に向き合うというイメージがあるかもしれないけれど、それは書きたいことがあり、すでに言葉とイメージの力がついている場合だ。
自我の発達や読書習慣などがあってようやくできることで、ある程度内容の整った作文を一人で書くのは、多くの小学生には難しい。
だから、作文課題は、一緒にイメージを作り、体験を価値あるものにしていく協同作業なのだと考えてもらいたい。
一人で断片的な文章を書くよりも、よほど意義のある作品になるはずだ。

イメージの重要性

表現の源泉となる「イメージ」の力は、読書や読解問題でも本質的な問題となる。
紙の上の「字」と「イメージ」をいかにスムーズに行き来できるかが、表現力や読解力などの言語能力を左右すると言ってもいい。
にも関わらず、特に集団指導において、イメージは無視されてしまうことが多い。
一人ひとりの中にあるイメージを引き出し、共有するのは、集団指導では難しいからだ。
子どもの作文課題や読解問題を一緒に解く機会があるなら、ぜひ、子どもの中にあるイメージに注目し、共有し、一緒に楽しんでみてほしい。

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