佐々木義之

築100年以上の実家の「家じまい」をして、「物」とは何かを考えさせられました。基本的に…

佐々木義之

築100年以上の実家の「家じまい」をして、「物」とは何かを考えさせられました。基本的には炉で焼くかごみで出すのですが、昔の写真や手紙などは特にやっかいです。「思い切って」処分しながら、これは正に自分自身との「別れ」なのだと痛感しました。「立つ鳥跡を濁さず」で行くとしよう!

最近の記事

生と死と復活

「生」と「死」と「復活」は三位一体、すなわち一つのものですが、ある一つから見ると、他の二つは対極的なものです。例えば、復活から見ると、生と死は対極的なもの、すなわち一つのものの裏と表のようなものですが、そこには一体どのような対極性があるのでしょうか?まず「誕生」は宇宙という全体からの分離であり、へその緒が切れるのがその象徴です。逆に、死は全体への回帰です。一般には、死んで「星になる」と言われます。では、死から見たときの生と復活の対極性とはどのようなものでしょうか?どちらも生き

    • 愛と献身

      R. シュタイナーは、「エーテル的な意味での献身とは、他の存在あるいは事象の中で自分を体験することであり、愛とは、自分の魂の中で他者を体験することである。」と言っています。自分を含めて、「愛」と「献身」は同じようなものだと思っている人が多いと思われますが、どうも正反対のもののようです。「献身」では、他者が前提となるため、その中で自分をしっかり保つ必要があるのに対して、「愛」の場合は、あくまでも自分が前提となるため、できるだけ自分を抑制する必要があるわけです。かつて、オウム真理

      • 父と子と聖霊

        キリストを「信じる」とはどういうことでしょうか?キリストすなわち世界の本質を「愛する」ということです。しかし、そりゃまそうだけどね~、となりますよね。つまり、人間は、世界全体といった何か漠然としたものを愛することができるほど発達していないのです。したがって、まず愛する対象となる存在を「知る」必要があります。しかし、本当に知るということは愛することそのものであると言えるでしょう。マニアと呼ばれる人たちを見れば、そのことがよく分かります。しかし、何かを知るというのは極めて個人的な

        • 自由という使命

          普段は、自分を大事にすることと、他人のために尽くすこととの間でうまくバランスを取りながら、あるいはそれがあまり問題になることなく生きているわけですが、いい加減に生きるのでなければ、やはり、自分と他者という対極性は大きな問題であるはずです。しかし、考えてみると、これらはいずれも「こうあるべし」という強制であることに変わりないということが分かります。したがって、この対極性を克服して、何か有意義なものにするのは、「自由」であるはずです。 「私が私の命と私の魂を捧げ、それを新たに受け

        生と死と復活

          言葉の生成と分解

          FBやnoteに投稿するということは、言葉を紡ぎ出すことに他なりません。シュタイナーによると、我々が死ぬと、これらの言葉の分解に取り掛かることになるのだそうです。つまり、言葉はアーエーイーオーウーなどに分解しながら、世界に響き渡ることで、霊的なものが誕生するのです。そして、そのようにして宇宙の周辺部から響いてくるものが死者にとっての感覚になるわけですが、多分、これは言葉の死と復活ですね。では、サーバーに残った我々の言葉はどうなの?と思われるかもしれませんが、それこそ正にアーリ

          言葉の生成と分解

          あの世とこの世

          「対極的なものは一つの全体である」というのが人智学的な考え方です。例えば、真偽、善悪、美醜、幸不幸といったものは、ものごとの裏と表であって、切り離すことはできません。もし、世の中の女性が全員「完璧な」美人だったとしたら、男は誰も女性に振り向かないはずです。「個性」とは醜さあってのものなので・・・だからといって、嘘をついたり、悪いことをしたり、なりふり構わないことが当然だと言っているわけではなく、それらを克服することにこの世を生きる意味があるわけです。では、何故、悪いことをする

          あの世とこの世

          死後の仕事

          私たちはこの世に生きる中で、多くのエネルギーを使って色々と努力しながら、多くの認識を獲得するだけでなく、ますます有能になっていきます。何故なら、この世を生きる目的とは、今まで持っていなかった何らかの「能力」を獲得することだからです。しかし、そのためにはエネルギーだけでなく、何らかの障害物が必要です。もし、何の苦労もなく、ハッピーに暮らしていけたとしたら、何ら努力する必要もないことになります。そのため、この世には、真善美といった幸福な側面だけでなく、それと表裏一体となった偽悪醜

          千の風になって

          この世でじたばたしている私たちとは何でしょうか?環境です!といっても、「死後の」という意味でして、泣いたり笑ったり怒ったり焦ったりしながらこの世を生きる今の私たちの「私(ich)」こそが、死後は、今の環境であるより高次の「私(Ich)」にとっての環境になるわけです。まあ、死後は、できれば嵐の中を行くのではなく、穏やかな天気の下のんびり行きたい(生きたい?)ものですが(^^;

          千の風になって

          勉強しよう!

          普通、人が何かを考えるとき、自分が何を考えているのかを知りません。何故なら、何かを考えるということは、「その」考えに支配されている状態に過ぎないからです。我々が「本当に」考えるということは、シュタイナーに言わせれば、「我々はある概念の内容を、純粋な直観によって、理念(アイデア)の世界から借定する。」(Wir bestimmen den Inhalt eines Begriffes durch reine Intuition aus der ideellen Sphäre he

          勉強しよう!

          聖書を「読む」

          聖書の言葉を頭で「理解する」ことにほとんど意味はありません。そもそも水をぶどう酒に変える奇跡のようなことを理解できますか?聖書では「読む」ことが必要になります。私読んでますが・・・と言われるかもしれませんが、それは意味を取っているだけで、聖書の場合、それは入口に過ぎません。何故でしょうか?イエスがキリストとして生きた3年間というのは、歴史上で特別な3年間だったからです。「その時」に限って言えば、水が本当に一瞬でぶどう酒に変わったのです!キリストが神であるとしたら、そんなことは

          聖書を「読む」

          言葉の絨毯

          我々はnoteに人が書いた記事を読んだり、自分で考えたことを投稿したりして色々なことを学んでいます。つまり、生きていることの意味は、認識を獲得することにある、と言えるでしょう。シュタイナーはこれを生きている間に敷かれた「言葉の絨毯」と言っています。一方、死後は、このようにして敷いた言葉の絨毯をもう一度バラバラにして解かすのが仕事になるそうです。例えば、「間」というのは「門」の間の「日」である、というように。何故なら、生きている間に認識を獲得するためには、それなりのエネルギーを

          二人のイエス

          主イエス・キリストの出生物語が載っているのはマタイ福音書とルカ福音書だけですが、両者には大きな違いがあります。というか、ヨセフとマリアという名前の夫婦からベツレヘムで生まれたということ以外は、全然別の物語です。マタイでは、ベツレヘムで生まれたイエスに会うために東方の占星術師たちがやって来て、ヘロデ王にその話をしたことで、これはまずいと思ったヘロデによる幼児虐殺が起こるのですが、一家はエジプトに逃げて無事でした。その際、占星術師たちは「その家に」入ったとされています。ヘロデの死

          二人のイエス

          愛する自由

          我々には、愛するか憎むかの自由があるのではなく、愛する自由だけがあります。何かを憎むのは、何らかの原因によるものであって、正に不自由の結果です。自分を最も酷い目に遭わせた「人」を愛することこそが最高の自由です。十字架に架かったキリストの姿はその象徴と言えるでしょう。しかし、我々は身体の中に生きている以上、食べていく必要があるので、なかなかそうもいきません。「主の祈り」の中心に「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」があるのはそういう意味かと。ちなみに、その前の3つは、「神」の御名

          対極性について

          電池は「陽極」と「陰極」から構成されていますが、誰でも知っているように、地球も一個の電池です。この対極的なものが一つの全体をなすというのは、物理的なものに限らず、精神的なものにも当てはまります。例えば、我々人間は「共感」というポジティブな感情と、「反感」というネガティブな感情でできています。もし、「私は反感とは無縁です」、あるいは「私は誰にも共感できない」という人がいたら、それは病気です。我々には共感する力があるのですが、それにもまた陰陽の二面性があります。つまり、ポジティブ

          対極性について

          言葉と身振り

          見知らぬ人かロボットに「立ちなさい!」と言われて、素直に立つ人がいるでしょうか?普通は「コイツ何言ってんの?」と思うか、せいぜい「変なヤツ」と思って逃げ出すかでしょう。つまり、「言葉」とは、単に「意味」を伝えるものであって、何ら現実的な、例えば、立つという「行為」とは無関係である、というのが現状ですが、昔は「言霊」といって、霊力のあるものでした。したがって、決して「死〇」などとは言ってはいけなかったわけです。今でもある程度「生きた」ものであるのは、「言葉」というより、「身振り

          言葉と身振り

          ぶどう園の労働者のたとえ

          マタイ福音書20章には、ぶどう園の主人(神)が、明け方から夕方まで働いた人にも、午後5時から小一時間働いた人にも、その間に雇った人たちにも等しく1デナリオンを支払った、という話があって、これをどう説明するか、皆さんいろいろ苦労しておられるようです。たとえば、小一時間しか働かなかったとしても、例えば何らかの不具合があって働きたくても働けなかったとすれば、それを補償する意味で同一賃金は当然である、といったように・・・しかし、同じ20章の最後の方で、イエスは「君たちの間で一番上にな

          ぶどう園の労働者のたとえ