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父と子と聖霊

キリストを「信じる」とはどういうことでしょうか?キリストすなわち世界の本質を「愛する」ということです。しかし、そりゃまそうだけどね~、となりますよね。つまり、人間は、世界全体といった何か漠然としたものを愛することができるほど発達していないのです。したがって、まず愛する対象となる存在を「知る」必要があります。しかし、本当に知るということは愛することそのものであると言えるでしょう。マニアと呼ばれる人たちを見れば、そのことがよく分かります。しかし、何かを知るというのは極めて個人的な問題でして、例えば、同じ富士山でも、人によって、あるいは状況によってそのイメージは千差万別です。人は自分の立ち位置からしか、あるいはそのときの状況に応じてしか富士山を知る(=愛する)ことはできません。まあ、富士山は分かりやすい例ですが、もっと隠されたことがらについて知るのはずっと難しいことでして、何かを教えられたからといって直ちにあーそうかと分かるわけではありません。そこで登場するのが聖霊、いわば認識の霊です。人間は納得できてはじめて、喜んで「行動する」ことができるわけですが、これが正に聖霊の働きでして、いわゆる頭の良い人たちというのは、聖霊の働きに敏感な人たちであると言えるでしょう。そして、行動することこそが、正に「生きる」ことでして、これが個人による世界への働きかけ、すなわち「創造する」ことであると言えるでしょう。以上をまとめると、個人(聖霊)と世界(父なる神)の間に立つのが、創造する神キリストであり、この三位一体の働きかけによって、我々は、信じること、愛すること、知ること、行動すること、生きることができているわけです。人智学というのは聖霊の働きかけを受けるための器になる訓練と言ってよいかと思いますが、一言で言えば「父なる神が我らの中にありますように、子なる神が我らの中で創造しますように、霊なる神が我らを照らし出しますように」(キリスト者共同体における祈りの言葉)ということかと。

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