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愛する自由

我々には、愛するか憎むかの自由があるのではなく、愛する自由だけがあります。何かを憎むのは、何らかの原因によるものであって、正に不自由の結果です。自分を最も酷い目に遭わせた「人」を愛することこそが最高の自由です。十字架に架かったキリストの姿はその象徴と言えるでしょう。しかし、我々は身体の中に生きている以上、食べていく必要があるので、なかなかそうもいきません。「主の祈り」の中心に「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」があるのはそういう意味かと。ちなみに、その前の3つは、「神」の御名(みな)、御国(みくに)、そして御心(みこころ)に関するもので、これらは身体の外(外部世界)の状況についての祈りです。一方、その後に来る3つは、「我ら」の罪、試み、そして悪に関するもので、どちらかというと身体の中(内部世界)の状況についての祈りです。これら3つの状況が整ったとき、はじめて我々は「自由」になれるのではないでしょうか。

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