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【短編小説】「空中散歩」(4/4)

「こんばんは」
 女性が滑らかに口を開く。間を置かず、
「こんばんは」
 樫村かしむらが返す。すると、女性は突然、眉間に皺を寄せ、
「もしかしてあなたですか。わたしの写真をばらまいているのは?」
 先ほどの透き通った声とは異なり、怒気を含んだ低い声で呟いた。
「しゃ、写真?」
 樫村は言いながら、阿部の写真か、と思い至る。そして、あれは自分ではないと否定するように首を振り、
「違います。僕はただ、」
「では、それは何なのでしょうか」
 女性がすっと指さした先には、樫村が手に持つスマートフォンがあった。
「先ほど、それで写したのではないですか」
 樫村は、う、と喉を詰まらせる。
 今、樫村のスマートフォンの中には、自分で撮った写真と、阿部から送ってもらった写真二枚が、同時にスマートフォンの中に入っていた。これで、自分は違いますというのは、さすがに無理のある話だった。樫村は早々に、えん罪であることを女性に分かってもらうことは不可能だと判断し、
「ごめんなさい。でも、悪気とかは全然なくて」と弁解した。
「それなら、今、この場で消していただけますか」
 女性の提案は、至極しごくもっともだった。しかし樫村は、阿部のコピーは即座に消しても良いと思ったが、ついさっき、自ら撮影したオリジナルは、今すぐに消してしまうのはあまりにも惜しい気がした。――だってあれは、奇跡の一枚だった。
「いや……」
 顔を伏せ、思わず本音がこぼれる。女性が、ふぅとため息を吐く。ああ、見限られた。樫村は率直にそう思った。
「――仕方ないですね。分かりました。今、この瞬間だけ、あなたの罪は許しましょう。これは慈悲です。ですが、二度目はないことはご理解ください」
 うつむいていた樫村はゆっくりと顔を上げ、泣きそうな顔をしながら、
「はい。ありがとうございます」と女性に礼を述べた。
「それにしてもあなた、妙ですね。どうしてここまで上って来られるのですか」
 樫村は足元を見下ろし、
「僕にも分かりません。先月、たまたまこの階段を上っていたら、空高く」
「では、この先も?」
 女性が振り返り、夜空の方を指差した。半月が二人を見下ろしていた。樫村は首を振り、
「いえ、僕はここまでです」
「そうですか。実はこの先に、不二ふじと言う道があるのですが、良かったらご一緒しませんか?」
 思っても見ない誘いに、樫村は初め警戒したものの、今この場で女性の機嫌を損ねるようなことは出来ないと思い、彼女の言葉に従うことにした。
「さあ」
 女性がそう言って、樫村に手を伸ばした。あまりにも自然な仕草に、樫村は思わず、手を伸ばしてその手を取った。強く握りすぎてしまうと、壊れてしまうのではと思うほど、ガラス細工のような華奢きゃしゃな手のひらだった。女性に手を引かれて見えない階段を上り、女性が言う「不二」の道へと上っていった。と言っても、樫村の目にはガラス張りどころか、まるで何もない透明な床の上を歩いているとしか思えず、足が震え出した。
「ふふ」
 それを見た女性が、口元を手の甲で隠し、笑った。
「お、おかしいですか」
 気づけば、声まで震えていた。
「ごめんなさい。弟のことを思い出してしまって」
「弟さん?」
「幼くして不治の病にかかり、方々手は尽くしたのだけれど、どうしようもなくて。私が月にでも行ければ、まだ何とかなったのかもしれないのですが」
「月、ですか?」
「あら。あなたたちも何度か、訪れたことがあるのでは」
 樫村は、昔のニュース映像を取り上げる番組で観た、宇宙飛行士のニール・アームストロングのことを思い出した。
「でも、ずっと昔のことですよ」
「そうなの?」
「はっきりと覚えているわけじゃないんですが、アメリカとソ連と言う国が、争うように月を目指し到達して以来、人類は誰一人として月には行っていないと思います」
「そう。――お互いに、遠い星になってしまったのね」
 女性はそう言うと、近いように見えて遠い月を見上げた。風が冷たい。
「でも今は、民間企業が宇宙旅行を提供する時代になりましたし、いずれまた、人類は月に到達できるような気がしますけど」
「――何のために?」
 そこで突然、女性が歩みを止めた。女性を追い抜き、遅れて樫村も足を止めた。樫村は振り返り、
「目的ですか?」
「理由もなく、月に行ったりはしないでしょう? 私は弟の病を治すために、月に存在するという万病に効く鉱物が欲しかったのですが、あなたたちの目的は何なのかしら」
 問われても、樫村に答えられるはずはなかった。そもそもなぜ人類は、宇宙へ飛び出したのか。そして、月へと向かったのか。
「まあ、いいわ」
 女性はそっけなくそう言うと、再び歩き出した。淡く光る半月を背に、二人だけの空中散歩が続く。樫村はすでに、足元を気にしなくなっていた。
「あの、さっきからずっと気になってたんですけど、あなたってもしかして……」
「ええ。あなたのご想像の通りよ。どうやら私のことは、物語としてみんなに知られているみたいだけれど」
 いまさらになって、樫村の現実が揺らぎだす。自分は今、昔話の登場人物と夜空を歩いている。これほど、非現実的な話はなかった。
「さて、夜空の散歩、楽しかったかしら」
 女性が立ち止まり、樫村の顔を覗き込んだ。
「いや、何と言えばいいのか。現実だと思うんですけど、夢みたいで。でも、現実なんでしょうね」
「現実と夢に違いなんてないわ。どちらも、生きているからこそ味わえるものよ。――帰りましょうか」
 樫村は女性の案内で不二の道を引き返し、見えない階段を下り、歩道橋の通路へと戻った。その後、女性はどうするのかと思えば、私の棲み処すみかはこの上だからと言って、再び見えない階段を上り、不二の道へ戻っていった。名残惜しそうに樫村が見上げると、女性が上空から、さようなら、とでも言うように、樫村に手を振った。樫村も小さく振り返した。二人は間もなく、お互いに背を向け、女性は夜空へ、樫村は地上へ向かって歩いていった。
  
 翌朝、樫村は昨日のことが現実だったのか、はたまた夢だったのか確かめようと、スマートフォンで撮影した写真を見てみた。そこには確かに、空中に浮かぶ人影、あの女性の姿が映っていた。樫村は、その画像を見るたびに、女性からたずねられたあの言葉を思い出した。
「何のために月に行くのですか?」

 そう言えば、ポルノグラフィティは『アポロ』という曲で、何を探していると歌っていたのか。歌詞をすっかり忘れていた樫村は、すぐにスマートフォンで調べた。分かった。

 ――愛だ。
 
 樫村はそれを知ると、何故かどうしても、そのことをあの女性に伝えたくなった。自分があの女性に愛の告白をするという意味ではもちろんなく、人類はもしかしたら、「愛」を探すために月を目指したのではないか。そのことを伝えたくなった。何故なら女性もまた、弟への愛のために月に行こうと思い立ったはずだから。樫村は再び、次の半月を待った。

 樫村は、あくまでも希望的観測に基づき、例の歩道橋の植え込みの前で、女性が現れるのを待った。しかし、零時を過ぎても女性は現れなかった。しびれを切らした樫村は、見えない階段を上って不二の道へ行こうと思った。
 歩道橋の階段を上り、最上段に足を掛け、次の段へ右足を踏み出した時、樫村の右足はむなしく空を切った。そこにはそれ以上、上に上る階段はなかった。おかしいと思い、階段からやり直して、何度も見えない階段を上ろうとしたのだが、樫村はついに、その階段を上ることは出来なかった。まるで初めから、そのような階段など存在していなかったとでも言うように。
 
 黄昏たそがれるように、歩道橋の通路の手すりに腕を掛け、歩道橋の下を通過していく天の川のような車の流れを見下ろしていた樫村は、ふと、夜空を見上げ、突然、思い立ったように大きな声を上げた。前触れもなく、頭の中に流れ始めたリズムに合わせて。

 僕らの生まれてくる
 ずっとずっと前にはもう
 アポロ11号は
 月に行ったっていうのに

 それはまぎれもなく、ポルノグラフィティの『アポロ』だった。
 
 僕らはこの街がまだ
 ジャングルだった頃から
 変わらない愛のかたち
 探している

 二度と歌うまいと思っていたこの歌を、樫村は十何年ぶりに声に出して歌った。樫村にこの歌を歌わせたのは、明らかにあの女性の存在だった。果たして、樫村の決して上手くはない歌声は、彼女に届いたのだろうか。

 ――そう。あの、かぐや姫に。
                               おわり

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