村上春樹│一人称単数│短編集レビュー
「女のいない男たち」以来6年ぶりに発表された短編集。8編を収めている。書下ろしの表題作『一人称単数』以外はすべて雑誌「文學界」に発表されたもので、『石のまくらに』『クリーム』『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』の3冊は2018年7月号、『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』と『「ヤクルト・スワローズ詩集」』は2019年8月号、『謝肉祭(Carnaval)』は2019年12月号、『品川猿の告白』は2020年2月号に掲載されたものである。
ここには大上段に振りかぶったような「テーマ」は見当たらない。しかし、それぞれの作品は、今ここにある自分の日常の瞬間が、生まれてからずっと続く人生のつながりの中の最新の一瞬であると同時に、いずれ迎えることになる死への起点でもあるということを強く印象づける。
だれしも人生の中で「あれは何だったのだろう」と思うような出来事や経験がある。ここに収められた作品の多くはそのような出来事を切り取り、そのままポンと提示する。それは確かに奇妙であったり理不尽であったり象徴的であったりするのだが、だからといって何か大きな展開に結びつくこともなく、「こういうことがありました」的に淡々と語られるのみである。
しかし、その前後で生のありようは時として決定的に変質してしまうことが示唆される。ここで語られる短い物語は、その前後の生を含んだ長い物語を最も的確に縮小し絞りこんだエピソードになっていて、それは常に細部が全体の相似になっているフラクタル図形のような、誰かの生が屈曲するひとつの瞬間を丁寧に書きこむことで、その前後の全体を想起させる仕掛けになっているのではないかと思う。
生がそこでどのように屈曲するのかは物語のひとつひとつによりもちろんさまざまであるが、おそらくは「自分を自分自身であらしめているのは何か」、あるいは「自分が自分自身であるとはどういうことか」「そもそも自分は自分自身なのか」、さらには「『自分自身』を観念することに意味があるのか」くらいのことがここでは問われていて、それが「一人称単数」というタイトルの含意だろう。
村上はそうした生の屈曲点をひょいひょいと見つけ出し、それをコンパクトに語って見せるだけで、これだけのことを「さあ、どうですかね」「これって何なんでしょうね」と差し出してくる。その筆致はもはや自在というか無碍というか、小説家の領分をきっちり守りながら読者の生にコミットしてくる、するっと読み流すこともできるし、いくらでも繰り返し何かを探しながら読むこともできる、そういう作品集になっている。
手ざわりとしては「東京奇譚集」に近いものを感じるが(品川猿も出てくるし)、ちょっとこのスルスル感でここまで到達するのは、もはや随分遠くまできたんだなあと感じる。
■ 石のまくらに
語り手である「僕」が大学時代に一夜だけ情を交わした女性のエピソード。彼女は「僕」のアルバイト仲間であったが、事情があってバイトを辞めることになり、ささやかな送別会の帰り道、彼女は一人で帰りたくないと言い出し「僕」のアパートに泊まって行く。
彼女は短歌を詠むのだと言う。「僕」が聞きたいと言うと、一週間ほどして彼女から歌集が送られてきた。タイトルは「石のまくらに」。そこには42首の短歌が収められており、「短歌のほとんどは、男女の愛と、そして人の死に関するものだった」。
「でもそこに収められた短歌のいくつかは、不思議なほど深く僕の心に残った」。今となってはどこの誰かも分からず、本人がこれらの短歌を覚えているかどうかすら分からないというのに、行きずりにその歌集を1冊譲り受けた「僕」は、いまだにその中の何首かを諳んじることができる。
長い歳月の中で、いろいろなものが生まれては消え去って行くとき、そこに残るものはいったい何か。確かにそこにあったもの、起こったことの多くはたやすく忘れ去られるのに、何かのきっかけやはずみでふとそこに残るものとはいったい何なのか。それらと、忘れ去られ、消え去った物事との間にあるものは何か。
「詠まれた歌の多くは――少なくともその歌集に収められていた短歌の多くは――疑いの余地なく、死のイメージを追い求めていたからだ。それもなぜか刃物で首を刎ねられることを」。「僕」はそこで「言葉」のことを思う。「証人として立つ用意ができている」「辛抱強い言葉たち」のことを。そのような言葉を残すためには人は自らの首を冷たい「石のまくらに載せなければならないのだ」。
「スプートニクの恋人」で言及された「町の入り口の門に犬の生き血をかけることによって、その呪術的な力で町を守ろうとした人々についての中国の昔話」と通底するものを感じる。止めようもなく過ぎ去って行く時間の中で、自らの生の縁(よすが)となるものは何か、それを人はどのようにして手にするのか。物語の終盤がやや説明的に感じられるきらいはあるが、表現者として、いや、生活者としての「覚悟」を表明した作品だと言えるかもしれない。
それにしてもこれらの短歌は村上が自分で作ったんだろうなあ。
■ クリーム
浪人中の「僕」のもとに、高校時代まで一緒にピアノを習っていた同い年の女性から、演奏会への招待状が届く。ピアノのレッスンを辞めてから連絡もなく、特に親しくもなかった彼女がなぜ唐突に招待状を寄越したのか、不審に思いながらも「僕」は花束を買って六甲山の上にあるという小さなホールに向かう。
ところが現地にたどり着いてみると、ホールの扉は固く閉ざされ(南京錠までかけられている)、人の姿もない。「僕」は何が起こっているのかも分からないまま演奏会を諦め、近くの公園で思いを巡らせているうちに過呼吸の発作に見舞われる。ようやく発作がおさまりかけたとき、一人の老人が現れ、「僕」にこう話しかけてくるのだ。
「『中心がいくつもあってやな、いや、ときとして無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや』と老人は額のしわを深めて言った。『そういう円を、きみは思い浮かべられるか?』」
そんな図形はない。しかし「自分ひとりだけの力で」「しっかりと智恵をしぼって」「血のにじむような真剣な努力」をすれば、「それがどういうもんかだんだんに見えてくるのや」と老人は言う。それは簡単なことではない。しかし「時間をかけて手間を掛けて、そのむずかしいことを成し遂げたときにな、それがそのまま人生のクリームになるんや」。
もちろん、「中心がいくつもあり外周がない円」も「クリーム」もただの言葉に過ぎない。そこにおいて示唆されているのは、僕たちが一生をかけて追い求め、目を細めるようにして見定めようとしながらもかすかな残像のようにしか見ることのできない、「真理」とかいったもののあやふやな姿だ。
しかし「僕」は「説明もつかないし筋も通らない、しかし心を深く激しく乱される出来事」のことを考える。僕たちの生は多く偶然性に支配され、日常は整理のつかない些末な事柄で充ちている。その中にあって僕たちを動かすものは、結局のところ「真理」などではなく、往々にしてその「何だかよく分からない些細なこと」であったりもする。
僕たちは理不尽にもそうした首尾一貫しない、便宜的な、しかし一方では宿命的な些事に支配される。しかし、だからこそ僕たちは何らかの首尾一貫性、何らかの揺るぎないものを求めようとするのでもある。生の動因が実際には「しょうもないつまらんこと」であることと、僕たちが人生のクリームや中心がいくつもある円について考えるづけることは矛盾しないし、むしろ等価であるのかもしれない。福音の物語。
■ チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ
「僕」が大学生の頃、大学の文芸誌に書いたチャーリー・パーカーの架空のアルバムのレコード評がモチーフになっている。
チャーリー・パーカーは天才的なアルト・サックス奏者でありながら、ドラッグに耽溺して夭逝し、その活動期間は極めて短かった。パーカーがボサノヴァを演奏したテープがレコード会社の保管室から発見されたという想定で「僕」は熱のこもった架空のレコード評を書く。
それは架空であるだけに逆に自由であり、「こんなアルバムがあれば」というリスナーとしての率直なパーカーへの憧憬を際立たせる。そのレコード評は、とても具体的に、情熱的に、その音楽の輪郭を、その深みを、その温度を、饒舌な文体で畳みかけて行く。
この部分がまず素晴らしい。音楽への理解と、知識と、何より愛情がなければ書き得ない文章だ。この文章を読むだけでも価値があるし、これがしっかりしているから物語にグッと迫力が出る。村上自身が熱心なジャズ・ファンであるからこそ書き得る文章であり、これがあるからこそ成り立つ短編だ。
だが物語はもちろんそれだけでは終わらない。「僕」はそれから15年も経ってから、ニューヨークの中古レコード屋で「Charlie Parker Plays Bossa Nova」と題するレコードを見つけるのだ。「僕」は激しく混乱する。なにしろ、かつて自分が日本のマイナーな雑誌に若気の至りで書いたインチキ評論のネタである架空のレコードが、存在するはずのないレコードがそこにあるのだ。
しかし「僕」は迷った末そのレコードを買わずに店を出る。ホテルに帰ってから激しく後悔し、翌朝一番にその店を訪れるがそのレコードは見当たらない。
その後に語られるのは、「僕」がさらに後年に見た、チャーリー・パーカーの夢のことだ。パーカーはあの架空のアルバムの収録曲を「僕」のためだけに演奏し、ボサノヴァを演奏させてくれたことへの礼を言う。そこにはどこかの隙間から差しこむ縦長の陽光があり、香ばしいコーヒーの匂いが漂っている。
ここにはおそらく教訓はない。そこにあるのは音楽を聴くという体験が、結局は極めて個人的なものであるという示唆であり、それが空気の震えとして消え去ってしまうことの祝福だ。そして、その限りにおいて、「プレイズ・ボサノヴァ」は確かに実在したのであり、パーカーは「僕」のために演奏したのだ。
「信じた方がいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから」。
■ ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles
焦点の絞りにくい作品。モチーフになっているのは、高校生のころ、学校の廊下ですれ違った「ウィズ・ザ・ビートルズ」の英国盤を大事そうに抱えた少女のことだが、作品のコアになるエピソードは、「僕」が高校時代につきあっていたサヨコというガールフレンドのことだ。
サヨコとは「二人で一緒にいろんな新しい体験をした。おそらく十代のときにしか手にすることのできない素晴らしい時間を共有もした」。しかし「彼女は僕の耳の奥にある特別な鈴を鳴らしてはくれなかった。どれだけ耳を澄ましても、その音は最後まで聞こえなかった」。
あるとき「僕」はサヨコの家に彼女を誘いに行くが、行き違いがあって彼女は出かけており、行きがかりから彼女の兄と居間で話をすることになる。彼女の兄は突然記憶の一部が途切れて「飛んで」しまう疾患に苦しめられている。彼の求めに応じて「僕」はたまたま持っていた国語の副読本に載っていた芥川龍之介の『歯車』を朗読する。奇妙な成り行きだ。
10年以上たってから、「僕」は彼女の兄と渋谷の雑踏で再会する。そこで「僕」は、彼女が自殺したことを知る。その偶然の再会には「何かを――僕らが生きていくという行為に含まれた意味らしきものを――示唆するものがあった」。人生は、そのようにして、いくつもの示唆を含みながら過ぎて行く。僕たちにはあるときはそれに気づき、あるときにはそうと気づかず通り過ぎる。そして後になって「ああ、あのとき」と思うことになる。
サヨコとのエピソードは『国境の南、太陽の西』に出てくるイズミを思わせる。主人公の「僕」が高校から大学にかけてつきあったイズミは美しい少女であったが、「僕が困惑し失望したのは、僕がイズミの中にいつまでたっても僕のためのものを発見できない点にあった」。
人生の長い流れの中でひととき巡り合い、あまりにも不完全な理解しかできないまま別れてしまった人たち。僕たちが誰かと分かり合えることはあまりに少なく、僕たちはあまりにも不完全であり、そしてそうする意図もないのに時として互いに激しく傷つけ合うことになる。そしてまたそれは自分自身をも大きく損なうことになる。
ただ、いくら考えてもこのエピソードと「ウィズ・ザ・ビートルズ」がフックしないので作品としては散漫な印象にならざるを得ない。
■ 「ヤクルト・スワローズ詩集」
この作品は、2014年にヤクルト・スワローズに名誉会員として寄せたメッセージ「『ヤクルト・スワローズ詩集』より」という文章を原型に、そこに父親に関するくだりなどを書き加えたものであり、まあほぼエッセイ。ヤクルト・スワローズに対する思い入れを語る軽妙洒脱な文章であるが、そこに書かれたことは村上の率直な気持ちであろうことが窺われる。
子供の頃、父に連れられて甲子園球場に阪神タイガースの応援に行った思い出や、母親がなぜか阪神タイガースの選手のテレホンカードを大量に収集していたエピソード、父親の葬儀でいとこらとビールを大量に飲んだ話などが語られるが、こうした「身内」への言及は「父親について語るとき」という副題のついた別著「猫を棄てる」と呼応したものかもしれない。
本作のタイトルになっている「ヤクルト・スワローズ詩集」は、村上が1982年に500部のみ自費出版したということになっている、その名の通りヤクルト・スワローズに関する詩集であり、収録された詩の多くは弱いスワローズへの愛情と詠嘆を歌ったものである。そこからの抜粋という形で『右翼手』『鳥の影』『外野手のお尻』『海流の中の島』の4編が収められている。
「ヤクルト・スワローズ詩集」についてはこれまでも収録作として公表された「詩」が何編か存在している。1981年刊行の糸井重里との共著「夢で会いましょう」には『オイル・サーディン』『スクイズ』『スター・ウォーズ』『チャーリー・マニエル』『ビール』の5編が収められている。他にもあるらしいけど探しきれない。
まあ、この掌編がエッセイではなくフィクションだというのであれば、それは「ヤクルト・スワローズ詩集」なんてどこにも存在しないというところかもしれない。
■ 謝肉祭(Carnaval)
「僕」が出会った「醜い」女性のエピソード。彼女とはクラシックのコンサートで初めて会い、音楽に対する考え方が近いことから意気投合する。究極のピアノ音楽は何かという議論で二人の意見は一致する。シューマンの『謝肉祭』。
ふたりは一緒に『謝肉祭』の演奏されるコンサートに出かけ、互いの家を行き来して『謝肉祭』のCDを片っ端から聴くことになる。彼女(便宜上「F*」と称される)は知的で洗練され音楽に対する造詣も深いが、彼女の正体はさっぱり分からない。そして「醜い」。
だが、ある時、彼女との連絡が取れなくなる。どうしたのかと気をもんでいた「僕」が見たのは、F*が詐欺事件の容疑者として逮捕されたというニュースだった。
ポイントになるのはもちろん彼女の醜さだ。映画や漫画とは異なって、僕たちはその「醜さ」を僕たち自身の中でイメージしなければならない。それがまずこの作品の仕掛けだ。
初期の『貧乏な叔母さんの話』にもあったように、それは「ただのことば」だ。それにも関わらず、「醜い女性」という「ただのことば」から読者ひとりひとりに喚起される像が物語の骨格を形作って行く。「醜さ」について丁寧に書きこんで行く村上の筆致には凄みすら感じる。
そして、そこでその醜さを手がかりに語られるのは人の二面性、多面性であり、それに引き裂かれる人間の宿命である。『謝肉祭』という作品の、仮面とその下の実体についての言及をF*は鋭く看破する。「悪霊の仮面の下には天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔がある」。
その二面性とは、高い教養を持ち裕福な生活を送る中年女性としての顔と、高齢者から財産を巻き上げる投資詐欺の犯人としての顔という、F*自身の二つの顔と、その二つをリンクするリングとしての醜さのことを示してもいる訳だが、その時にはそんなことが分かる訳もない。
しかし一方でその二面性は――詐欺師ほどダイナミックではないにせよ、あるいはまた彼女の「醜さ」のようなはっきりした結節の表徴がある訳ではないにせよ――僕たちの中にもあまねくあるもの。それが日常の中のふとした一瞬にわずかだが確かにその姿を見せる、その瞬間の日常の裂け目のことを村上は書いている。
その重要な媒介になるべきシューマンの『謝肉祭』を知らないのが残念だ。
■ 品川猿の告白
「僕」は一夜の宿を求めた温泉旅館で一頭の猿に出会う。猿は人間の言葉をしゃべり、その旅館で湯守りとして働いているのである。「僕」は興味を抱いて猿の身の上話を聞く。品川の御殿山近くで育ったその猿は、人間の女性を恋慕し、そのために彼女らの名前を盗むのだという。猿は「品川猿」と名乗った。
「その人の名前が記された、形あるもの」を手に入れ、そこに記された名前を長い間凝視し、気持ちをっ点に集中すると、それを意識の中にそっくり取りこむことができるのだ。「そして彼女の一部分は私の一部分となります」。
後年、「僕」はたまたま仕事で知り合った女性が、時折自分の名前を思い出せなくなるという話を聞く。彼女は高輪の公演で運転免許証を盗まれたのだという。「僕」は品川猿に思いを致す。しかし、もう盗みはやらないという猿の真摯な話しぶりを信じたくもある。
この話は「東京奇譚集」に収録されている『品川猿』の続編である。『品川猿』では猿に名前を盗まれた女性から相談を受けたカウンセラーが品川区役所勤務の夫の助けを得て猿を捕縛し、経緯を自白させる話である。この話では猿は高尾山に放逐されることになっていて、『告白』で「わけあってあるとき、品川から力尽くで放逐されまして、高崎山に放たれました」と猿が語っているのと符合する(山は違うが)。
名前を盗むという行為が意味するもの、そしてまた猿が人間社会から追放されて猿の群れに放りこまれながら、そこでも受け入れられず孤独な人生を送ることになる経緯など、ここで語られることは猿の姿に仮託されているが僕たちの生活の中にも当たり前のようにあるものである。
その意味で「僕」が出会うものが猿なのはひとつの表れに過ぎない。かつて『あしか祭り』(「カンガルー日和」収録)で「メタファーとしてのあしか」という自己解題を披歴した例に倣えば、これは「メタファーとしての猿」の話なのだ。
もちろん、「そんなアホな」と笑いながら読むこともできるし、そこに示された業のようなものが人に何をもたらし、人から何を奪うかを見ることもできる。また、そうした人の業に触れた時に自分の中で何が動かされるかを知る契機にもなる。
僕としては文章の端々、猿の語り口のそこここに忍ばされた村上らしい諧謔が楽しく、まずは気楽に読みたい作品。
■ 一人称単数
「私」はふだんスーツを着ることがないが、その日たまたま「そうだ、たまにはスーツでも着てみようかという気持ちになった」。「私」はスーツを着て街に出る。ふだんとは違うバーに入りウォッカ・ギムレットを飲みながら読みかけのミステリ小説を読む。
混み始めたバーで、「私」は隣に座った五十歳前後の洒落た着こなしの女性から話しかけられる。彼女は「私」を覚えのないできごとについて罵倒する。「よくよく考えてごらんなさい。三年前に、どこかの水辺てあったことを。そこでご自分がどんなひどいことを、おそましいことをなさったかを。恥を知りなさい」。
私は訳が分からないままバーを出る。しかし「そこはもう私の見知っているいつもの通りではなかった。(略)そこを歩いて行く男女は誰一人顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた」。その女性との会話を契機に世界は変容してしまったのだ。
もちろん彼女が「私」に話しかけてきたのはその日初めからそこに「ずれ」があったからだ。「そこには微妙なずれの意識があった。自分というコンテントが、今ある容れ物にうまく合っていない。あるいはそこにあるべき整合性が、どこかの時点で損なわれてしまったという感覚だ」。
スーツを着て外に出た時点でその「ずれ」は運命的なカタストロフに向けて動き出してしまった。女性はそれを分かりやすく指摘しただけに過ぎない。自分でも気づかない些細なきっかけで僕たちの生は決定的に屈曲する。
その程度はほんのわずかのこともあるが、取り返しのつかないほど大きくねじ曲がってしまうこともある。本書に収録された作品の中でそれを最も小説的に表現したのが、書き下ろしの表題作であるこの掌編だということだろう。
自分の中のわずかな違和感が加速度的に破綻に向かって顕在化し外部事象をすら動かし始めてしまう構造は「TVピープル」所収の『眠り』を思い起こさせる。僕たちの生がどんなプラットフォームに乗っかっているのか、それはいったいいかほど確かなものなのか、現実を歪めることでそのことに言及したハードエッジな作品だ。
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