てれまこし

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自分の書く文章は役に立つ情報とか簡易なアドヴァイスは含まれていません。自分の文章が提供するのは問いです。私が出した答えなんてものは一蹴してくれて結構です。問いを持ち帰ってください。

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8本の貪欲な足が捕えてくる書物を食わされているタコが排泄するもの。なんていうと汚らしいけど、使い方次第で毒にも薬にもなる。世界に裏切られないための教養にもなる。 もう少し真面目な話をすれば、答えを他人から与えてもらうのが嫌いで自分で考えたい人たちが集まる場所にしたい。

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  • タコの読書日記

    タコが捕食した本たちの紹介

  • 恐れない女(「恐れる男」から見た)

    知っているがために生きることを恐れ死に憧れる男。知らないがゆえに(あるいは知っても仕方がないゆえに)死をも恐れず生きかつ生かせる女。なんだか女をバカにしたような話なんだが、人類の生命力を裏で支えてきたのはこの「恐れない女」たちであったかもしれない。そういう記事をまとめてみた。

  • 講座 教養としての国際政治経済学

    国際政治経済学という学問。名前が示唆するほど欲張りな学問ではありませんが、これを学ぶと巷で行なわれてる多くの論争の根底にある本質的な争点が見抜けるようになる。自分が生きている時代をグローバルな視野で眺められるようになる。そんな学問を、専門としては学ばない一般の人向けに講義したものです。

最近の記事

正義の味方と弱くて悪い連中 その三

長話の言い訳ひつこい奴だなと思われるかもしれませんが、セイギの味方とヨワワル連シリーズ第三講です。長話になるのは、これなどは政治と宗教という自分の人間学的関心とわりかし近いところにあるからです。話がさらに長くなりますからここでは触れませんが、硬直化したリベラリズムを柔らかく揉み解して、死んだドグマから生きた思想に再生させる一助となる人間学的教養の可能性みたいなものを示せるかもと思います。学者や専門家になって素人を論破するための教養じゃありません。この世に産み落とされた誰もが

    • 正義の味方と弱くて悪い連中 その二

      「弱いけど善人じゃないかも」の人々さて、前回からの続きであります。 復習しますと、現代の正義の味方にとっては、「悪」が「弱」でもある、あるいは「弱」が「悪」でもあると考えることが、非常に厄介なものとなっている。しかし、世のなかには、「自分は弱いけど善人ではないかも」という不安を拭えないひとたちがけっこうおります。そういう存在をあたかも存在しないもののように扱う正義の味方は、政治の世界、とくにデモクラシーにおいては、民衆の英雄ではなく敵とみなされかねない。今日「リベラル」と

      • 「自分のために生きる」ということ

        自分はときどき専業主夫を任される。貧乏だから、炊事洗濯掃除などはなるべく他人や機械に頼らないで、ぜんぶ自分の手でやる。けっこう忙しい。一日中、何かやることがある。ゆっくり読んだり書いたりする時間がほとんどない。昼飯を食ったら、もう晩飯のことを考えてる。一日中、次は何を食わせようかということばかり考えてる。しかも、ほぼ家にいるし、訪ねてくるような者もほとんどいない。世間からますます遠ざかる。 以前であれば、これを煩わしく感じて、少しでも誰かに負担を押しつけたくなった。これはオ

        • 正義の味方と弱くて悪い連中 その一

          「正義の味方」とはわれわれが子どもの時以来慣れ親しんだ人物像に、「正義の味方」があります。世界征服を企む悪の帝国のようなものから、ぼくらのようなか弱きものを守るために、わが身を削って戦ってくれる。そういう方々です。 幼い自分が英雄として絶対的に支持し、また憧れたのは、この「正義の味方」でありました。ひとつには、無論むちゃくちゃ強いというのがありまして、数多の敵をばったばったとなぎ倒していく。これに憧れまして、自分でも真似して遊んだものです。「遊んだ」と今でこそ言いますが、

        正義の味方と弱くて悪い連中 その三

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          正義の味方と弱くて悪い連中 その三

          長話の言い訳ひつこい奴だなと思われるかもしれませんが、セイギの味方とヨワワル連シリーズ第三講です。長話になるのは、これなどは政治と宗教という自分の人間学的関心とわりかし近いところにあるからです。話がさらに長くなりますからここでは触れませんが、硬直化したリベラリズムを柔らかく揉み解して、死んだドグマから生きた思想に再生させる一助となる人間学的教養の可能性みたいなものを示せるかもと思います。学者や専門家になって素人を論破するための教養じゃありません。この世に産み落とされた誰もが

          正義の味方と弱くて悪い連中 その三

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          正義の味方と弱くて悪い連中 その二

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          「正義の味方」とはわれわれが子どもの時以来慣れ親しんだ人物像に、「正義の味方」があります。世界征服を企む悪の帝国のようなものから、ぼくらのようなか弱きものを守るために、わが身を削って戦ってくれる。そういう方々です。 幼い自分が英雄として絶対的に支持し、また憧れたのは、この「正義の味方」でありました。ひとつには、無論むちゃくちゃ強いというのがありまして、数多の敵をばったばったとなぎ倒していく。これに憧れまして、自分でも真似して遊んだものです。「遊んだ」と今でこそ言いますが、

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          オトナのゲンジツとワカモノのリソウ

          エセ現実主義者の反省毎年のことだが、空調のない環境で生きてる自分は、夏の終わりにはもう体が弱って死にかける。体を鍛えても、暑さだけはなんともならんらしい。予想はしていたけど、今年の夏はかなり厳しくて、もうかなり命が削られてる。夏の終わりまでもつかどうか不安。こうなると、猫みたいに、なるべく涼しいところで何もせずにじっとしてるしかない。冬眠ならぬ夏眠でしのぐしかない。 不幸なことに、カネを請求する商売を始めてしまったから、暑くても片付けないとならない仕事がある。ぜんぜん儲か

          オトナのゲンジツとワカモノのリソウ

          ウチでもなくソトでもない人間学的領域としての「世間」

          遠いけど近い世間「世間」ということばが日本語にはある。多くのひとが気にもとめずに、これを使ったり聞いたりしてる。だが、自分は柳田国男を読んでるときに、そのなんでもなさそうな語に興味がわいて、ここ15年くらい注意してる。「なんだ、変わり者だな」と思われるかもしれないが、そうでもない。かつて自分も調べてみて驚いたのだが、多くの人が同じ興味を抱いたらしくて、もういろいろと書かれてる(偶然ではない。自分もそれらのひとも同じようなものを読んでるから、似たような疑問を抱いた)。 それ

          ウチでもなくソトでもない人間学的領域としての「世間」

          「高等遊民」のなにが「高等」であるか

          人生と宇宙の謎この宇宙は謎に満ちている。われわれやわれわれを囲むものはどこから来たのか。どこへ向かっているのか。その空間や時間はどのような秩序に従っているのか。その秩序において、自分はいったいどのような位置を占めているのか。すなわち、自分の存在の意味とはなにか。いまここで自分は何をすべきかという問いに対する十全な答えは、まずこうした問いに答えないと出てこない。 論理を徹底して考えれば、おそらく何人と言えども認めざるを得ないような真実であるが、所詮論理的演算は頭のなかの出来

          「高等遊民」のなにが「高等」であるか

        記事

          オトナのゲンジツとワカモノのリソウ

          エセ現実主義者の反省毎年のことだが、空調のない環境で生きてる自分は、夏の終わりにはもう体が弱って死にかける。体を鍛えても、暑さだけはなんともならんらしい。予想はしていたけど、今年の夏はかなり厳しくて、もうかなり命が削られてる。夏の終わりまでもつかどうか不安。こうなると、猫みたいに、なるべく涼しいところで何もせずにじっとしてるしかない。冬眠ならぬ夏眠でしのぐしかない。 不幸なことに、カネを請求する商売を始めてしまったから、暑くても片付けないとならない仕事がある。ぜんぜん儲か

          オトナのゲンジツとワカモノのリソウ

          ウチでもなくソトでもない人間学的領域としての「世間」

          遠いけど近い世間「世間」ということばが日本語にはある。多くのひとが気にもとめずに、これを使ったり聞いたりしてる。だが、自分は柳田国男を読んでるときに、そのなんでもなさそうな語に興味がわいて、ここ15年くらい注意してる。「なんだ、変わり者だな」と思われるかもしれないが、そうでもない。かつて自分も調べてみて驚いたのだが、多くの人が同じ興味を抱いたらしくて、もういろいろと書かれてる(偶然ではない。自分もそれらのひとも同じようなものを読んでるから、似たような疑問を抱いた)。 それ

          ウチでもなくソトでもない人間学的領域としての「世間」

          「高等遊民」のなにが「高等」であるか

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          「高等遊民」のなにが「高等」であるか

          三人のマキァヴェリアン

          統治される者にとっての政治学今回の話は、どこかしら大学の講義くさい。なるべくそうならないようにするつもりだが、それでもちょっとばかり親身になって考えにくい話かもしれない。というのも、政治には統治する者と統治される者がいて、今回の話は統治する者の話である。 われわれの大半は、自分で政治権力を掌握しようなどとは思ったこともない。征服され統治されることを専らにしてる。だからといって悪の軍団の首領みたいな人に統治されるのは御免こうむりたいんだが、善良な人に統治されればそれに越した

          三人のマキァヴェリアン

          前に天使の画像を note で検索したんだけど、そのほとんどが女性。天使に性別はないだろうが、ミカエルとかガブリエルとか元来はみんな男の姿だったから、ぼくらの時代に天使のイメージが女性化した。人間と神のあいだを仲介する役割は女性のものとなったんだ。どういうわけなんだ?

          前に天使の画像を note で検索したんだけど、そのほとんどが女性。天使に性別はないだろうが、ミカエルとかガブリエルとか元来はみんな男の姿だったから、ぼくらの時代に天使のイメージが女性化した。人間と神のあいだを仲介する役割は女性のものとなったんだ。どういうわけなんだ?

          「どうしたら書けるんですか」という問いについて

          「書かなくては」の正体今更かもしれないが、自分は「書く」ということに大きな意味を見出している人間である。自分個人にとってだけではなく、社会、あるいは人類にとってもである。であるから、書いても書かなくてもどっちでもいいやん、とは言えない。カネになろうがなるまいが、たといそのために罰せられるような時代になっても、誰かは「書か」ないとならない。そう思ってる。 別に万人が書くことに長ずるようになるべきだとは思ってないし、たくさん書く奴がエライとも思ってない。ましてや、書かない奴は

          「どうしたら書けるんですか」という問いについて

          田山花袋『田舎教師』の初版復刻版。きれいな箱に入ってる。小さい文字がページに詰め込まれてないから老眼にもやさしい。読むだけじゃなくて所有して愛でるものだったんだな。読むだけでなんだか贅沢な気分になるけど、書かれてる内容とのギャップもすごい。

          田山花袋『田舎教師』の初版復刻版。きれいな箱に入ってる。小さい文字がページに詰め込まれてないから老眼にもやさしい。読むだけじゃなくて所有して愛でるものだったんだな。読むだけでなんだか贅沢な気分になるけど、書かれてる内容とのギャップもすごい。

          知性と知能のちがい

          頭がよくないとダメな時代二階から世間を眺めていますと、近年は「賢い」とか「頭がよい」ことを尊ぶ風潮があるようです。あるいは、「頭が悪い」ということが、人間的な弱さとか欠点ということでは済まされなくなっている、と言った方がよいかもしれません。みんながみんな賢く見せたい、少なくとも「頭が悪い」とは思われたくない。それがちょっと強迫観念じみたものになっているような印象を受けます。 もちろん、私の若いころから、頭が悪いよりはよい、賢くないよりは賢い方がよろしいことになっているんで

          知性と知能のちがい

          「考え過ぎ」を考えてみた

          いい加減に考える難しさ世のなかにはなんにも考えてないような人もおるかと思うと、無駄に考え過ぎる人もおることになっております。たぶん多くは、この両極端を避ける中庸を目指していまして、「考えてるけど考え過ぎず、まあ自分くらいがよい湯加減だろう」くらいに思っておるんではないかと思います。「いい加減に考える」とか「適当に考える」などと言うと、なんだか徹底しないように聞こえるんですが、字義通りに受け取ると「過不足なく考える」ということでありますから、コスパがよいわけであります。 自

          「考え過ぎ」を考えてみた

          ひとが食おうとも思ってないものを食わせる方法(読書日記『宝石の国』)

          読み応えあるマンガ自分はもうめったにマンガを読まない人間だが、先般、娘に勧められて久しぶりにある作品を全巻通読する機会があった。市川春子さんという人が描いた『宝石の国』というマンガなのだが、なんだか世俗の時代の宗教のこととか物語のことなどを、いろいろと考えさせられる内容であった。つまり、単なる娯楽体験に終わらない読みごたえだった。マンガだって書であり、書を読めば読書だ。 ということで、今回の「読書日記」は、この作品を読んで門外漢の自分が感じたことを、言葉に落としてみようと

          ひとが食おうとも思ってないものを食わせる方法(読書日記『宝石の国』)

          「愛する」とは(死によって終わる愛を終わらせないようにすること)

          愛に死が絡む物語自分が大学生の頃に、『ノルウェーの森』という小説が大いに売れて、一種の社会現象みたいになった。ネタバレになるといかんから詳述しないが、恋人の死を受けいれられずに精神的に不安定になってる女の子との、切ない恋の物語だ。自分の友人のなかにも感化を受けた奴が何人かいて、ラストシーンを真似て、「オレも旅にでて、電話ボックスで『ぼくは一体誰なんだ』って叫びたくなったよ」なんて言ってる。それはさすがに恥しくてできないから、主人公のタバコのもみ消し方なんて真似てる。 「そん

          「愛する」とは(死によって終わる愛を終わらせないようにすること)

          「学者先生」が嫌われる理由

          反知性の時代?自分が書く記事のなかにもあまりにマニアックすぎて、「まあ、これは一般受けしねえだろうな」と思うものがあります。そういうものは、やっぱりたいがいスキがつきません。ところが、ときどきそうした予想を裏切ってスカれるものがあって、びっくりさせられることがあります。 嬉しい驚きなんですが、いくら考えても、どうしてこんなものがウケたのかよくわからない。でも、少し前に気づいたんですが、どうやらそういう記事にもある共通点が一つあるようで、しかもそれがマーケッティング術に収まら

          「学者先生」が嫌われる理由