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正義の味方と弱くて悪い連中 その一

割引あり

「正義の味方」とは

われわれが子どもの時以来慣れ親しんだ人物像に、「正義の味方」があります。世界征服を企む悪の帝国のようなものから、ぼくらのようなか弱きものを守るために、わが身を削って戦ってくれる。そういう方々です。

幼い自分が英雄として絶対的に支持し、また憧れたのは、この「正義の味方」でありました。ひとつには、無論むちゃくちゃ強いというのがありまして、数多の敵をばったばったとなぎ倒していく。これに憧れまして、自分でも真似して遊んだものです。「遊んだ」と今でこそ言いますが、当人たちは真剣そのものでありました。

しかし、ただ強いだけではない。強いだけの奴なら悪の側にもいるし、それがゆえにある種の尊敬を勝ち得たりもする。しかし、正義の味方は、彼らに守られる者にも彼らの敵にもない、彼らにしかない特徴がある。それは、「強いのに弱い者の味方」でもあることです。こちらはなかなか模倣することがむずかしいんでありますが、これをなんの迷いも衒いもなくやってのける正義の味方たちは、それがゆえにわれらの英雄たりえたわけであります。

正義とは、悪を罰し善に報いることであります。ですから、正義の味方の仕事は、まずは「善を助け悪をくじく」ことであります。だけども、同時に「弱きを助け強きをくじく」とも言われます。ここで重要な問いが生じるかと思います。この二つは、同じことをちがう言い方で言い直したのでしょうか。それとも、正義の味方には使命が二つあるんでしょうか。善とはつねに弱いものであり、悪はつねに強いものであると想定しないかぎり、二つは等置できません。だから、やっぱりちがう使命が二つあるのかもしれません。

しかし、別の解釈もありえます。善にも強い奴がいて、悪にも弱い奴がいるんですが、それなら勝手にさせておいても、自然に善が勝って悪が負けます。だから、正義の味方の助けなど必要ない。ですが、弱い善を助け、強い悪をくじくことによってしか、正義は実現しないような状況を考えることができまして、だから正義の味方が存在しうる。ですから、正義の味方は弱い善と強い悪にしか関心がない。そういう風に理解することもできますし、どうやらこちらの方がありそうな話です。

強いのに弱い者に与する者が「正義の味方」となるには、社会に方にもある条件が整っていなければなりません。それは、社会においては自動的に正義が実現しないということであります。つまり、放っておくと悪が勝ち、善が負けるようになっている。ですから、正義は、何らかの主体が悪をくじき善を助けることによってしか実現しません。そういう社会においてのみ、強いのに弱い者の味方が、正義の味方として尊敬を勝ちうる。そう言えるかと思います。

正義の味方が英雄たりうるのも、「強いのに弱い者の味方」であるような者は奇特な人であるからです。なんとなれば、強いんだから、やろうと思えば、自分だって弱い者を虐めたり搾取したりできる。それをしないのみならず、自分の力をタダで(?)弱者のために使ってくれる。そんな人がそうたくさんいるわけがない。だから英雄になれる。まあ、真にありがたい存在で、現実の社会よりはスクリーンのなかで頻繁にお目にかかるような人物であります。

だけども、そうなりますと、正義の味方が尊敬される世界においては、弱い善人と強い悪人と正義の味方だけの関係でものごとが決まってしまうような話になります。それでは、強い善人や弱い悪人である者がなんだか面白くない。「私は強いけど善人よ」とか「オレは悪人だけど弱いんだ」とか言うと、胡散くさそうな眼で見られる。

まあ、強い善人の方は助けを必要としないし、欲すれば正義の味方の仲間入りできるので、放っておくとしましても、弱い悪人の方は、その立場がより不安定です。弱いんですから助けられるべきですが、悪でもありますから退治されかねない。そういう人たちにとって、「正義の味方」は必ずしも自分たちの味方とは思えない。正義の味方とその支持者の方から見ましても、この「弱くて悪い」者たちは、退治すべきか助けるべきなのかよくわかんない。ある意味では、「強くて悪い」者たちよりも、ずっと厄介な存在であります。

正義の味方の人望問題

酷暑のなかで自分がこんなことを考えてるのは閑人であるからでしょうが、実は案外真面目な動機があります。先般の都知事選や現在進行中の米国大統領選挙などに関するネット上のコメントを眺めてると、一般に「リベラル」とか「サヨク」などと呼ばれる陣営の候補には、「正義の味方」のイメージが投射されています。敵も味方もこれをします。労働者、貧困層、障がい者、少数民族、女性や LGBT などのマイノリティを強者の横暴から守ろうとする人びとでありますから、自他ともにそういうイメージを付する理由があります。

しかし、近年の変化として、「正義の味方」のイメージに否定的な意味が付されるようにもなっています。あいつはどうも「正義の味方」っぽい面をしてる。きっとわしらには冷たいぞ。そういうイメージであります。この「正義の味方」たちに変わって人望を得ているのは、彼らの宿敵であった悪の軍団の首領のような人びとです。とくに、ポリコレに反するような意見をわざとひけらかす、口の悪いひとたちが多い。つまり、有権者の人心は「正義の味方」から「悪の首領」みたいな人たちに移ってるように見えます。

しかし、だからといって、「善をくじき悪を助く」とか「強きを助け弱きをくじく」ような「不正義の味方」を求める声は聞えてきませんから、やっぱりひとは正義の味方の使命については伝統的な見方を維持してるようです。ただ、「正義の味方」とされるような人びとよりは「悪の首領」のような人のほうが、実は大多数を構成する自分たちの味方(すなわち、真の「正義の味方」)に近い。そういうふうに感じられているようなんです。

そうなりますと、変わったのは有権者たちの自己評価の方であります。弱い善人であれば、自動的に正義の味方によって助けられると確信できる。しかし、自分は弱いけど悪い、あるいは悪いけど弱い。弱いから助けてもらいたいんだけど、正義の味方は、助けてくれるどころか自分らを退治することしか考えてなさそうなひとびとである。そのように感じる者が増えてきたのではないかと思います。退治されてはかなわんから、正義の味方を叩いてくれるものを支持する。

近年、「リベラル」とか左派が「保守」や右派に対して劣勢を強いられることが多くなりましたが、その一因として、この「正義の味方」の人望問題が挙げられるかもしれない。それは、リベラル・左派が「悪いけど弱い」とか「弱いけど悪い」というような現象を扱うのがひどく苦手になったことに起因しているんではないか。そんな疑問が、自分にこんなことを考え始めさせたきっかけであります。

「悪」と「弱」のカンケー

一般に、善と弱、悪と強のあいだに自然な親和性があるように感じられます。善は弱いし、弱いから善である。あるいは、悪は強いし、強いから悪い。のび太君のような人は善人たらざるをえないし、ジャイアンは悪人になるのが自然である。力が人間を腐敗させる、権力を得た者は誰でも悪に染まる。そうであるならば、強いものを叩けばだいたい悪いものを叩いていることになるし、弱いものを助ければ善を助けていると仮定してもよろしいわけであります。

ところが、ニーチェなんかを読んだことがある人ならわかるでしょうが、善即弱、悪即強という考えは多分に歴史的なものでありまして、いつでもどこでもそう考えられたわけではない。かつては、強いことが即ち善であり、弱いことは悪である証拠である、という考えもまた支持を得ていた時代や状況がありました。

現代の道徳感情を逆なでするような意見なんですが、一般化するとこういうことのようです。誰かが力をもっているのは神々に愛されているからであり、神々が愛するものが善である。弱いのは神々に罰せられている罪びとであるからである。そういう風に考えられた。ニーチェの語る道徳の歴史もちょっと怪しい虚構の歴史っぽいんですが、そういう価値体系が存在しうるし、また存在したことだけは否定できそうもありません。

そのような価値体系のもとでは、正義とは弱きを助け強きをくじくことではなくなります。そうではなく、強いものにも弱いものにも相応の報いを与えるのが正義です。すなわち、強い者が富み栄え、弱い者はその慈悲にすがって生きることができるような、そういう社会です。ここで下手に弱い者に同情して自由や権力など与えてしまうと、社会全体が腐敗堕落してみんなが困ることになる。富や名声は他人から奪ってくるものになりますし、美も勇気も名誉も顧みられなくなる。それはまったく正義とは逆の状態である。そういうふうな正義観がありうるわけです。

幸いなことに、近代の道徳思想は、こうした貴族的道徳を否定いたしました。人間は平等である。いな、実は弱い者こそが善人であり、強い者は悪人たらざるをえない。ですから、放っておいたら悪人が勝ちます。そうなれば、自動的に社会に悪がはびこります。正義を実現するためには、弱い者たちを助けて強い者たちに抵抗しないとならない。ですから、この道徳は政治的にも有意義であって、デモクラティックな帰結を伴っていた。この歴史的文脈で、英雄もまた正義の味方になりまして、われわれがテレビで親しんだような「正義の味方」たちもまた、この系列に属するわけであります。

しかし、この新しい英雄は、「悪いけど弱い」とか「弱いけど悪い」というものを扱うのがひどく苦手なひとびとである。そして、今日の有権者の多くは、まさに自分たちをそのように捉えるようになっている。そこに今日の「リベラル」やサヨクの苦境がある。そういうふうに考えることもできるんではないでしょうか。

マジョリティ内の弱者

そうなった理由については、もういろいろと書かれておりまして、みなさんもどこかで読んだことがおありかと思います。労働者階級の中産化と保守化に失望したサヨクは、その関心をマイノリティに向けた。労働者による改革・革命という夢が破れたから、マイノリティをマジョリティの横暴から守るという使命を自らの存在意義を見出そうとした。そう言えるかもしれません。ところが、そうしますとマジョリティを敵にまわすことになりますから、民主的に(つまり数の力によって)政治権力を奪取しようとする政治勢力としては自殺行為となった。そういうことが示唆されています。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。