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三人のマキァヴェリアン

割引あり

統治される者にとっての政治学

今回の話は、どこかしら大学の講義くさい。なるべくそうならないようにするつもりだが、それでもちょっとばかり親身になって考えにくい話かもしれない。というのも、政治には統治する者と統治される者がいて、今回の話は統治する者の話である。

われわれの大半は、自分で政治権力を掌握しようなどとは思ったこともない。征服され統治されることを専らにしてる。だからといって悪の軍団の首領みたいな人に統治されるのは御免こうむりたいんだが、善良な人に統治されればそれに越したことはないと考える者である。だから、政治参加を呼びかけるにしても、主観上は権力闘争としての政治の外に留まってる。

それでも、人民(国民)主権などという原理のもとで、自分らを統治する者を世論や選挙によって統御し返す、という厄介な仕事を課せられている。言ってみれば、政治家たちを自分たちの部下として扱う管理職や経営者、あるいは社外取締役のような立場に立たされることがある。そうなると、いくら統治される方専門といっても、「権力闘争に携わるひとはいかなる論理で動いてるのか」についても知っておかないとならない。マキァヴェッリは、そういう政治について考える際に、避けては通れない思想家である。

加えて、近年、なんだか政治にきなくさい臭いが立ち込めてる。国内でも国と国の間でも、権力闘争があちこちで従来ののりを越えて激化しつつある。非常時の政治学を説いたマキァヴェッリを読み直すのによい機会である。幸いなことに、『マキァヴェッリ全集』なるものが筑摩から出版されてる。自分も『君主論』と『ディスコルシ』の英訳しか読んだことがない。この際、他の著作も含めて、邦訳でぜんぶ読んで、その周辺の文献も少し漁ってみた。今回の話は、その報告みたいなものである。

マキァヴェッリってあんたの何?

その前に、こんな腹の足しにもならんようなことを、なぜ自分ごととして考え始めたかを理解してもらうために、マキァヴェッリ紹介のついでに、少し自分の個人的なマキァヴェッリ体験を語らせてもらおう。

以前にも紹介したが、マキァヴェッリはルネサンス期のイタリアを生きた人で、近代政治学の祖とされてる。彼の『君主論』は政治学の古典とされていて、学部生でも必ず読まされる。自分が非常勤講師になって最初にもたされた講座の一つが近代政治理論であったが、その筆頭に出てくるのがマキァヴェッリだった。

同時に、自分にとってマキァヴェッリは、知的英雄にもっとも近い存在となった。これは多分に偶然、運命のいたずらによるものである。自分は政治理論を専門にしてなかったから、教えるのに不安があった。そこで、講義ノートを作るために、一か月くらいかけて『君主論』を精読した。こんなことを聞かれたらどうしようかと不安で、それこそ考えられるかぎりの質問を想定して準備した。そうやってるうちに、「あのわかりやすすぎるほどわかりやすい小さな書物に、これほど深い考えがつまってたのか」と驚かされた。古典テクストの精読なんてものをやったのはそれが初めての経験であったから、愛着がわいた。

授業をやってるうちに、学生というものは滅多なことで質問なんかしないものであるということがわかって安心してしまったから、マキァヴェッリ以降の思想家(ホッブズ、ロック、ルソー、マルクスなど)のテクストはそれほど精読せずに済ましてしまった。それで、マキァヴェッリだけが特別な存在として印象に残った。

そんなしょうもない理由で自分はマキァヴェッリ好きなんであるが、下手に自分の英雄にしてしまったがために、歴史的には根拠がないいろいろなイメージを彼に投射して、テクストにも自分の考えをいろいろと読み込んでしまったらしい。自分にとってマキァヴェッリは、ちょっと悪魔的な微笑を湛えた、神をも恐れぬ理智の人であったんだが、彼の伝記などを読むと、ちょっとイメージとちがう。

マキァヴェッリはフィレンツェ政府の書記官(今でいう事務方のトップの一人)、統領の右腕として活躍する能吏だったが、スペインの支援を受けてメディチ家が復帰した政変で失脚し、政治から締め出された。それで田舎の農園に蟄居させられてる。彼が文筆活動で知られるようになるのはこの後のことで、書く動機もメディチ家のような有力者に取り入ってまた職を与えてもらうため。当然、書く内容もその動機に影響されてる。でも、文筆による就職活動は上手くいかずに、残りの半生は不遇に終わった。

だから、失職中の中年、老年のオヤジの悲哀に満ちてて、英雄というより、なんだか自分のような人間に近い。彼を知ってる人たちから見ると、どちらかというと真面目な方の市民であって、政敵のなかにさえ彼の信心を疑う者はいなかったらしい。教会でさえそうだった。

であるから、自分のマキァヴェッリとの出会いは、単なる運命のいたずらであったかもしれない。だが、自分はそれに感謝してる。というのも、この出会いによって、世界から裏切られ続けないための教養みたいなものが得られたし、そうでなければ得られなかったんじゃないかと思うからである。その体験をみんなに伝えて納得してもらいたいがために、ビンボーゆすりしながら書いてるのがこの一文である。

怪しからん思想の背景

読者のみなさんのうちには、マキァヴェッリの思想がどんなものなのか知らない方も多いであろうから、ここで手短に紹介しておこう。通説では、マキァヴェッリの革新は、政治を宗教や道徳から切り離して自律的な領域としたことである。そうすることによって、当為(「であるべき」)ではなく存在(「である」)を扱う学問としての近代政治学の基礎みたいなものを築いた。

現実の政治とは権力をめぐる闘争にほかならない。これが近代政治学の一つの前提なのだが、これを最初にやったのがマキァヴェッリだということになっている。むろん通説であって、いろいろ批判があり、そのうちのいくつかは正当なものであるが、マキァヴェッリを一言で紹介するとなると、だいたいこのようなことを聞かされる。

そう言われても何がすごいんだかピンとこないだろうから、もう少し生々しい言い方をしてみよう。政治家たるもの、権力闘争に勝つためには非道徳的な手段を用いることをためらってはならない、道徳的に見せかけられればそれに越したことはないけど、道徳的純潔にこだわって権力を失うような奴はそもそも政治に関わるべきでない。そんなことをすると、本人だけではなく統治される者にとっても不幸なことになる。そういうことを言ったのがマキァヴェッリである。

そんな怪しからんこと言った奴なのか、そんな奴の書いたものが古典としていまだに学生たちに教えられてるなんて信じがたい。もし本当だとすれば、これは放っておけない。即刻禁書にして焚書すべきだ。たぶんそう思った人も少なくないだろう。実際に、彼の死後にそういう批判が高まって、そういう不誠実な政治に彼の名が冠せられるようになった。マキァヴェリアンな政治というのは、結果のために手段を選ばない汚い政治のことである。

しかし、彼が生きた時代のフィレンツェやイタリアににおいては、どうやらそういう反応は主なものでなかった。『君主論』や『ディスコルシ』は彼の死後までは出版されないんだが、その手稿は広く読まれたらしいし、教会関係者も知っていた。マキァヴェッリ自身が、メディチ家出身の教皇とその関係者に自分を売り込んでたくらいだ。

よく知らないんだが、たぶんルネサンス期のイタリアにおいては神学の影響力があまり強くないから、マキァヴェッリの大胆な提案を軽く受け流すくらいの余地があったのではないかと思われる。だが、もう一つは、『君主論』においては、汚い政治がイタリアの救済という大義に結び付けられて、正当化されてる。当時のイタリアは、名目上は神聖ローマ皇帝の支配下にあるが、皇帝の力が弱まるにつれて、そのライバルのフランス王やスペイン王たちの覇権争いの場となって、度重なる侵略に悩まされてた。イタリアはミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、教皇庁などに分裂しており、互いに争っていた。

さらに、この対外的脅威は都市国家特有の内紛と関わっている。都市内の党派争いが激化して武力衝突に至る。敗れた方は追放されたり亡命したりして、外からまた権力奪取を目論むんだが、その際に外国勢力に支援を求める。そうやって外交と内政の危機が連動して、内憂外患の様相を呈していた。イタリア人の都市共和国を守るために、イタリア(と言っても、当時のイタリアは北部はフランス、南部はスペインの支配地域であったから、今日でいう中部イタリアだけ)を統一する強力な力量をもった政治指導者の登場を、マキァヴェッリは期待していた。そして、権力の獲得と維持の仕方を知っている助言者として、自分を雇ってもらおうとした。

すなわち、マキァヴェッリの汚い政治は、祖国の自由と独立を大義としてる。本気でそう言ってるのか、あるいは彼の政治理論の非道徳性を和らげる飾りにすぎないのか、専門家のあいだでも意見が分かれる。自分が読んだかぎりでは、マキァヴェッリ自身がこの点に関して悩んだ形跡はない。権力奪取・維持の専門家として権力者に非道徳的な手段を勧めることで飯を食うということと、祖国(ときにフィレンツェであり、ときにトスカーナ地方)を愛するひとりの善き市民でありキリスト教徒であることのあいだに、深い矛盾を感ずるには至らなかったようだ。

彼ほど明敏な人がそんなはずはないと思う人もいるが、それはマキァヴェッリの思想のさまざまな帰結が徹底的に展開された上での後知恵で、同時代を生きた人にはそれが明瞭ではなかったはずだ。現代を生きるぼくらだって、そうした矛盾に気づかず生きてるし、生きていける。

グィッチャルディーニのマキァヴェリズム

さて、マキァヴェッリの同時代人にフランチェスコ・グィッチャルディーニという人がいる。マキァヴェッリより14歳年下で、フィレンツェの名門貴族の御曹司であり当主である。だが、身分のちがいにもかかわらず、マキァヴェッリと意気投合する。晩年のマキァヴェッリは、教皇軍司令官だったグィッチャルディーニの非公式の片腕として働いたらしい。

後の彼は歴史家として知られるようになるけど、当時は現役の政治家であり、メディチ家に仕えた。当時は教皇がメディチ家出身であったから、祖国フィレンツェではなくて法王庁に仕えるかたちになった。マキァヴェッリとは対照的に、政治のキャリアで大きな成功を収めて出世した組である。だが、晩年はやはり政変で失脚して、田舎の別荘で歴史などを書いて過した。

このグィッチャルディーニという人が、子孫たちに遺した処世のための訓戒集みたいなものがあるんだが(『フィレンツェ名門貴族の処世術 リコルディ』として、講談社学術文庫から邦訳が再版されてる)、それなどを読むとマキァヴェッリ以上のマキァヴェリアンである。勝った馬に乗れるよう行動しろ。誰も信用するな、本心は誰にも明かすな。長いものにまかれろ、でもまかれすぎると危険だから距離を保て。友情は大事だが、感情に流されすぎて危険に巻き込まれるな。要するに、不誠実たれというような訓戒を繰り返し垂れている。

もとより一家秘伝の書であるから、出版されることを想定して書かれてないのかもしれないが、政治の世界で生き残ることと道徳的たることは両立しないという確信を赤裸々に説いてる。面白いのは彼のマキァヴェッリ評であって、その能力を高く買いながらも、(古代ローマの共和政という)古くさい理想を盲目的に信じすぎてるとか、議論のための議論をふっかける癖があるとか、陰口もたたいてる。マキァヴェッリは厳しい現実を透徹した目で見た現実主義者である、という今日のマキァヴェッリ観とは真向から対立するような見解である。メディチ家をしてイタリアを統一させるなどという事業がユートピア構想に近いことを、内情に通じたグィッチャルディーニはよく知っていた。

フィレンツェの同時代の偉人だから、二人はよく比較されてきた。マキァヴェッリは、死後にマキァヴェリズムの祖として犯罪者扱いされるようになるが、グィッチャルディーニは冷静な歴史家として名声を博す。しかし、19世紀に『リコルディ』が公刊されると、この評価が逆転する。マキァヴェッリはイタリア独立の熱情に燃えた愛国者ということになって、グィッチャルディーニは不誠実な二枚舌野郎、祖国を犠牲にして私益の擁護のために汲々とした堕落した世代の代表とされた。

確かに、マキァヴェッリを読むと高貴な感情(祖国のための自己犠牲、私益より公共善)が刺激されるところがあるが、グィッチャルディーニの方はただただシニカルな気分にさせられる。前者にあって後者にないのは、愛国のレトリック(?)である。面白いことに、全集の補巻に集められた19世紀以降のマキァヴェッリ論考の多くは、マキァヴェッリの理想主義的な側面に言及しているが、たぶんこうした時代の評価を反映してる。しかし、グィッチャルディーニと異なり、そこにマキァヴェッリの弱点ではなく真骨頂を見出している。グィッチャルディーニに欠けているのは、まさにこの理想主義的な一面である。

これはこれで、それ以前の一面的な評価に対する健全な反動だが、あまりに行き過ぎると逆の極端に走るきらいもある。自分はまだ『リコルディ』しか読んでないんだが、グィッチャルディーニが理想を欠いた人間であるというのは、たぶん正しくない。彼もまた教会の不正に憤りを感じていたし、祖国の自由の喪失を悲しんでいた。それなのにメディチ家出身の教皇に仕えていたんだから、やっぱり二枚舌の卑怯者じゃないかとも言えるけど、別に彼が無理して道徳と心中したところで、教会が変わるわけでもイタリアが自由になるわけでもない。名門一族の当主として、そんなことをするのはかえって無責任でわがままである。

ひとつには生まれのタイミングである。マキァヴェッリの若い頃は、まだフィレンツェに自由が残っていた。グィッチャルディーニが活躍した時代は、都市国家の共和国が絶対王制の国民国家に呑みこまれていく趨勢が不可逆のものとなりつつあった時代で、フィレンツェの自由は完全に失われてしまってる。マキァヴェッリとグィッチャルディーニを隔てる14年で、情勢がそれほど変化した。

しかし、もう一つは、マキァヴェッリとグィッチャルディーニの社会的立場の違いである。マキァヴェッリは元名門一族の没落した分家の出であり、自らの政治基盤を持たない。当時の都市国家の政治は、有力な市民(多くは商人)が自らの名声、資金、コネ、兵力などを用いて行うもので、政府自体ははなはだ小さく無力だった。

マキァヴェッリは能力を買われて事務方のトップになった人で、今でいうと純粋な公務員である。田舎に小さな農園をもつ小領主でもあるが、ヨーロッパを股にかけるフィレンツェ商人たちと肩を並べることはできない。その能力の高さから大使級の使命を帯びさせられて各地の宮廷に派遣されるんだが、公式には大使として認められてない。困るのは、今みたいに必要経費が公費で落ちない。旅費のみならず報告書を送る通信費でさえ、自腹を切らないとならない。政府が金を出し渋るので、いつも金欠で、金の無心ばかりさせられてる。

だから、マキァヴェッリは「武器をもたない預言者」の無力を自覚しており、自分を取り立ててくれる強大な君主を求めた。それさえ手に入れれば、自分はイタリアを外国の侵略から守ることができる。そういう幻想に近い希望を抱けた。この望みが達成されなかったからこそ、彼はその幻想を死ぬまで抱きつづけることができた。

これに対して、グィッチャルディーニは、マキァヴェッリが求めて得られなかったものをすべて持ってる。しかし、それでも運命の女神をかしずかせるにはぜんぜん足りない。だから、グィッチャルディーニはマキァヴェッリの楽観を共有できない。彼にできることは、自分とその一族が生き残って、機が熟するのを忍耐強く待つだけである。運命の女神は人を没落もさせるが、機会も与えてくれる。その機会が訪れるまでは、したたかに生き延びる方が理に適っている。滅亡は間近だと騒いで性急に変革をもたらそうと焦るのではなく、時間稼ぎをして好機をまつ。そのために力を温存しておかなければならない。言ってみれば、彼のマキァヴェリズムは、すでに敗北が明らかになった時代のマキァヴェリズム、野党のマキァヴェリズムである。

コルテスとマキァヴェッリ

三人目のマキァヴェリアンは、アステカ帝国の征服者エルナン・コルテスである。一般の世界史ではコルテスとマキァヴェッリはつながらないが、自分はそこにあるつながりを発見した。

まず第一に、コルテスはマキァヴェッリやグィッチャルディーニの同時代人である(グィッチャルディーニより2歳年少)。コルテスは、インカ帝国の征服者フランシスコ・ピサロと同様、スペインの下級貴族の出である。郷士と呼ばれる、後のドン・キホーテが所属したのと同じ階級である。当時のスペインは、イスラム教徒を駆逐して再征服を完成したカトリック両王のもとで統一を成し遂げ、国民国家への道を歩んでいたが、それはコルテスやピサロのような宮廷に出仕できない地方貴族たちにとっては、立身出世の機会が閉ざされることでもあった。

スペインにおいては、騎士道物語の時代はもはや過去のものになっている。没落する田舎貴族が名と財を成すには、イタリアに出征するか新大陸に渡るか、どちらかしかない。コルテスは新大陸を選んだ。もし、コルテスがイタリアを選べば、彼の運命とマキァヴェッリやグィッチャルディーニとそれとがどこかで交わったかもしれない。ちなみにマキァヴェッリが注目したイタリアの新君主のチェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル六世の庶子)もまたスペイン出身で、正しくはボルハであるらしい。

コルテスがスペイン国王/ローマ皇帝に送った報告書簡の一つに、「運命の女神は常に大胆な者をお助けになる」という、まるでマキァヴェッリのような文句がある。マキァヴェッリを読んでいたのかどうか気になるところだが、決定的な証拠はないらしい。運命の女神はローマの神で、人文主義者(ユマニスタ。今でいうヒューマニストとは少しく意味が違って、ギリシャ・ローマの古典研究者たちがこう呼ばれた)のあいだでは広く共有されていた表象であるが、報告書簡にも、上記の一節を除いてはイタリア人文主義の影響を示すものがない。だが、コルテスはサラマンカ大学でイタリア帰りの先生について勉強している。晩年は自宅のサロンに人文学者らを招いていたらしいから、ルネサンスの人文主義にも関心を抱いていた形跡がある。

コルテスがマキァヴェッリを知っていたかどうかは不明だが、彼の新大陸での行動は、まさにボルジアばりのマキァヴェリアンそのものである。わずか数百人のスペイン人だけで大帝国を征服できたのは、どうやらコルテスのマキァヴェリズムによるところが大きい。

たとえば、彼の報告を読んでると、何万人の敵を相手に数百人のスペイン人が闘って、敵は何百人と死ぬのに、スペイン人はほとんど死傷者がでない。どうやらコルテスは死傷者の数を過少に報告する癖があるらしいが、それにしたって、まるで騎士道物語に出てくる騎士(現代であれば、テレビで悪の軍団と闘う正義に味方たち)みたいに、ばったばったと敵を切り倒していくような印象を受ける。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。