「高等遊民」のなにが「高等」であるか
人生と宇宙の謎
この宇宙は謎に満ちている。われわれやわれわれを囲むものはどこから来たのか。どこへ向かっているのか。その空間や時間はどのような秩序に従っているのか。その秩序において、自分はいったいどのような位置を占めているのか。すなわち、自分の存在の意味とはなにか。いまここで自分は何をすべきかという問いに対する十全な答えは、まずこうした問いに答えないと出てこない。
論理を徹底して考えれば、おそらく何人と言えども認めざるを得ないような真実であるが、所詮論理的演算は頭のなかの出来事にすぎない。いくら考えても確固とした答えは得られそうにないし、自分が生きていくのに役立つ答えが得られるともかぎらない。そんな問いにいかほどの重要性を与えるかは人による。同じ人であっても、人生のどこらへんを歩いているかでちがう。
自分の経験であると、子どもの時分には、明らかに宇宙の謎に深く印象付けられる感受性があったように思う。子どもの目に映るのは宇宙のごくごく一部であるが、それをより大きな宇宙の一部として捉えることができた(必ずしも、そのような言葉では捉えなかったけど)。その証拠に、ぼくらがわくわくどきどきさせられたマンガやアニメの多くがそういうテーマを扱っていたし、どうやら今でもそうである。ところが壮年期には、そんなことはどうでもよくなった。それが人生の秋を過ぎ冬になるにつれて、また気になってくる。どうやら人の一生というものは、一直線に悟りに向かって進むものではないらしい。
それがなぜか考えてみると、思い当たる理由がいくつかある。大人になれば、世間に身を投じて忙しく働かねばならない。一つの大きな問題ではなくて、身のまわりの小さな問題をたくさん解決しないとならない。自分のためだけではなくて、他人のためにもそうしないとならない。子どもだってそうかもしれないが、大人の仕事は自分がやらないと他の誰もやってくれないことが多いから、他人任せにできない。
答えがすぐに出そうもない大きな問題に出会うたびにいちいち立ち止まってたんじゃ、思い切りがつかない。ぐずぐずしないで決断して動かないと他の人が迷惑するから、大きな問題にこだわるのは自分勝手なわがままになる。とりあえずそれは脇に置いといて、まずは目の前の問題から片付けよう。宇宙が自分に運命づけたことではなく、自分を頼りにする人がこうして欲しいと期待するようなことを慮って、それをできるだけ実現してあげる。それが責任ある大人のやり方であるし、そうでない大人が増えすぎたらみんな困る。
だが、年を重ねて、後進が育って、そうした細々としたことの責任から解放されるにつれて、ひとはまた考えるようになる。自分はこうやって生きてきたけど、本当にそれでよかったのか。あのときはああしたけど、それでよかったのか。隠居してお役御免になったのちに、自分は何をすべきか。そんなことを考えてると、人は何のために生きるか、そもそもこの宇宙で人間の存在はどういう意味をもつか、という問いが必然的に出てくる。とくに、人生において何らかの挫折を経験し、後悔を引きずってる人ほどそうである。
青年期というのは少年期と壮年期の中間であって、過渡期であるとも言える。自分の記憶でも、目の前の課題解決に忙しくしてるかと思うと、立ち止まって宇宙の神秘をあれこれいじくりまわしてるような暇もなくもなかった(そこにあの青年期特有のセンチメンタリズムの源泉があった)。だけども、それさえも卒業後の不安とか異性への憧れとか身近にさし迫った問題と絡みあってるから、やっぱり子どもと大人のあいだの中間的な段階だ。
ただ、近ごろは青年期からいろいろと準備に忙しいことが多いようだから、そんなことには気を取られていられない人も増えたかもしれない。だが、そうなると、どうやって無責任な子どもから責任ある大人に移行するのかが不明になる。圧縮はされていても、なんらかのかたちで似たような過程を経るんではないかと思う。その圧縮がどのように精神的成長に影響を及ぼすのか、自分などは心配がなくもないが、まだ道が長いから先を急ごう。
そのように考えると、宇宙の謎に関しては、人生の構造は、少なくとも三つの段階に図式化できるんではないか。責任がないがゆえに自由に宇宙の謎を探求する段階(仮に幼年期と呼ぶ)、頼りにされ責任を負わされて目の前の問題解決に奔走する段階(壮年期)、そして、その経験を踏まえた上でまた遠くに目を向ける余裕が出てくる段階(老年期)である。具体的にどの年齢に当てはまるかは、その人の置かれた状況によるだろう。自分なんかは働き盛りに蟄居を強いられたから、早くに第二の段階から第三の段階に移行させられてしまったらしい。
読者の「高等遊民」、漱石の「高等遊民」
もとよりあくせく働かなくても食っていける有閑階級は、必ずしも第二の段階を経なくともよい。であるから、一生そんなことを考えていくこともできる(むろん、考えないこともできるが、死ぬほど退屈するらしい)。つまり、幼年期が老年期に直接つながって、壮年期みたいなものがない(あるいは、幼年期がずっと続くと言った方がよいかもしれない)。アリストテレスが政治は閑がある人にしかできないと言ったのと同じ意味で、宇宙の謎の探求は閑人の事業である。リベラル・アーツの「リベラル」も、リベラリズムではなくて、「必要とされないものをやる余裕を有する人のための」という意味である。
だが、民主化された平等な社会においては、万人が食うために働かねばならない。それだけでない。価値観自体が変わった。かつては労働は罰であったのが、働いているということが人間としてなにより立派なことになった。だから、一生食うのに不自由しない資産を作った人でさえ、まだ働き続けたりする。資産を有する人ほど、人一倍働いたりする。そうしないと、なんだか自分の価値が損なわれるように思われる。下手に宇宙の謎なんかを追求しはじめると、なんだ子どもっぽいなとか、もう老けちゃったのかとか思われかねない。よくて「ロマンチストだね」とか言われるくらいだ。だから、社会が民主化し平等になるにつれて、壮年期が少年期と老年期を圧迫して、ずっと問題解決のために働き続ける人が増える計算だ。
宇宙の謎としては必ずしも捉えられてないが、そういう世の中になっても世俗的な成功に背を向けて真善美を追求するような人々を、漱石は『それから』で「高等遊民」と呼んだ。「遊民」というのは、「仕事もしないでぶらぶらしてる人」という、どちらかというと否定的な意味のことばである。それに「高等」という形容矛盾と思われるような形容詞をあえて冠した。当時これがちょっとした評判になったらしく、自分はそういう高等遊民であるとか、あるいは自分もそういう高等な遊民生活を送ってみたいと思う者が続出した。
辞書で調べると、「遊民」とは、定職につかずに遊んで暮らす人と定義されてる。だから、いくら「高等」になったところで、やっぱり「遊んで」暮らしてるのは変わりがない。たぶん、この「遊んで」というのは、まったく稼ぎがないというわけではない。定職をもたないその日暮らしの者も含まれえたし、酒や賭け事の提供のように社会的に立派な仕事と認められてないような商売に携わる人びとも、いくら忙しくしていても、その顧客といっしょに遊民たりえたんじゃないかと思う。詩人や芸術家なども同様である。であるから、「遊」には「ぶらぶらして」という意味に加えて、定まった社会秩序(宇宙の秩序を反映してると考えられた)のなかに決まった場所をもたないという含意もありそうだ。
だが、民主社会では仕事に貴賤はない。合法であるかぎりは、稼いでいれば働いてるし、稼いでなければ遊んでるということになった。だから高等遊民になりたければ、まず稼ぎをもっていてはならない。誰かに養ってもらわないとならない。親でも親類でも、養ってくれる人がいて(あるいはそういう人から資産を受け継いで)はじめて、働かずにすむ。暇ができる。じゃあ、その暇で何をするかというと、飲酒や賭け事のかわりに、読書をしたり芸術作品をめでたりする。それが「高等」の形容詞の意味である。『それから』の主人公代助は、実業家の父に養ってもらいながら(たぶんあまりきれいな金ではないと知りつつ)、そういう生活を送ってる。
漱石の時代には高等教育は少数の者の特権であるが、「大学は出たけれど」がもう現実のものになってた。とくに文科なんかを出てしまうと地方の中学教師にでもなれれば運がいい方だった。であるから、『それから』の主人公に憧れた者とは、成績優秀で学校には行ったものの定職を見つけられない者、あるいは定職があっても辞めてもっと意味ある生活をしてみたいと思ってる者たちであろうと想像される。そういう読者のなかには、漱石は「(自分のような)高等遊民たれ」というメッセージを発した作家であると解した者が多かったようだ。だが、自分が読んだかぎり、それは正しくない。漱石は明らかに高等遊民ではなかった(あくせく働かないと食えなかった)し、「できるひとは誰でも高等遊民的な生き方を追求すべき」とも言わなそうである。
というのも、『それから』の代助は、人妻との不倫の恋のために高等遊民的な生活を棄ててる。別に高貴でも絶世の美女でもない女のため、燃え上るような情熱でもない腐れ縁の恋のためにである。『彼岸過迄』の須永の伯父松本は高等遊民的な生き方をしてる人だが、漱石は彼に、「高等遊民は社会と対立する存在ではない、むしろ社会にみずから巻き込まれていく趣味人である」と語らせている。松本は須永に高等遊民的な自分にはない素質を見てとり、彼の行く末を案じてる。須永は「恐れる男」であって、その恐怖は自分の出自の卑しさの秘密を越えた何かに向けられている。それがゆえに、本当は惹かれている従妹との関係にも踏み込めないのだが、それが単なる恋の問題にとどまらない。宇宙的な恐怖にまで募って、『行人』の一郎や『こヽろ』の先生に引き継がれていく。たぶんこの頃の漱石を捉えていたのは、この「非高等遊民的な恐れ」であった。
真善美を愛しながらも、生活の必要や世間体からそれを後回しにすることを迫られる。デビュー作『吾輩は猫である』にもそういう人々が出てくるが、彼らは「高等遊民」ではなく「太平の逸民」と呼ばれている。逸民というのは、世のなかの些事を避けて隠遁した人、とくに官に仕えずに在野で過ごす人なんかを指す。人びとが平和を貪っている時代には、天下国家に尽くすべき有為の人材が草莽に埋もれやすい。求められないから引っ込む。そうやって無為に人生を過ごしてしまう。「逸民」にはそういう含意があるかと思う。
それができるんだから、「いいご身分ですな」と言われるような人びとなんだが、『猫』ではちょっと自嘲が混じってる。というのも、いかに真善美を愛していようが、脱俗的な人物であろうが、少し滑稽に描かれてる。漱石自身とその周辺に集まってた知識人・文化人たちがモデルとなってるんだが、食うためにイヤな仕事(学校教師)をやらされたり、そうでなければ親の遺産を食いつぶしながら、文字通りぶらぶらしてる。「高等」がつかない「遊民」と、なんだか大差ない。『猫』はもともと『ホトトギス』の同人に向けて書かれたもので、世間から貶められた文士らが、自分で自分を笑って慰めてるという身内ネタの一面があった。
だが、宇宙が最善のために作られ、人間は真善美を求める存在であれば、なぜそのようなことが起こりうるのか。ひょっとすると、宇宙は最善のためには作られてないのではないか。あるいは、宇宙は善だが、人間が邪悪な存在であり、宇宙の秩序からははみ出た存在なのではないのか。宇宙のガンなのではないか。真善美を憎んで、なにか別の偶像を拝みたがるのが人間の本性ではないのか。
神がおつくりになられた宇宙になぜ悪が存在するのか。西洋ではそのような神義論という形で問われてきた形而上学的な問いが、近代日本では漱石のような知識人によって、このようなかたちで引き受けられた。すなわち、自分ごととして悩まれた。自分と家族を食わせないとならない。家庭のよき父であり夫でないとならない。良き隣人であり頼れる親類でなければならない。だけども、それが真善美とは相容れそうもない。漱石はそういう高等遊民らしからぬ生活をしていたから、この悩みが自分ごとになったのである。
芥川の「高等遊民」評
芥川龍之介が『点心』に、『それから』の代助評を書いている。自分は美のために生きるとうそぶいて、オスカー・ワイルド風の芸術至上主義者を気取ってみたりもしてる人である。地獄絵を完成させるために、自分の娘が焼き殺される姿をデッサンし続けた『地獄変』の絵師良秀は、そうした芸術至上主義者の象徴である。白樺派の連中みたいに金持ちの親に生れつかなかったという点を除けば、漱石の弟子のなかでも芥川はまさに高等遊民になる資格がありそうだし、本人もそうなりたいと思っていたようなところがある。代助について何か興味深いことを言えるはずだ。だが、この期待は見事に裏切られる。
芥川は、『それから』が高等遊民の模倣者を多く生んだのは、現実にはそういう人はいそうでいて滅多にいないからじゃないか、とまるで他人事のように指摘するにとどまってる。芥川は、漱石が高等遊民ではないことを知っていたはずである。自分の高等遊民の素質にも気づいているはずである。だが、「ああいう金持ちの親がいれば、オレは喜んで(つまり好いた女なんか見捨ててでも)高等遊民をやったのにな」という羨みなのか、それとも高等遊民などという幻想に憧れる自分ら貧乏文士を嘲ったものかよくわからない。それを明らかにせずに、よい小説とはそういうありそうでない人物を描くものかもしれない、などという安易な小説論みたいのに逃げてしまっている。
たぶん、以前話をしたことのある芥川の「距離を置く理性」が、これをさせる。自分が高等遊民たりうるか、そうなるべきかという問いは、後に自殺にまで追い込まれるほど、彼の心を乱すものである。だから、自分自身の問題とは切り離して、小説論みたいにして終らせちゃった。そういう風にも疑える。
この芥川の反応は、どちらかというと壮年期の大人に近いものである。小説家として成功していければ、それで自分はよい。それをむずかしくするほどの面倒な問いは、なるべく遠ざけておく。しかし、遠ざけきれずに、最後は追いつめられて死んだ。高等遊民を肯定も否定もできなかった弱さゆえに、追いつめられた。健康を害し、親類のごたごたというつまらない俗事に巻き込まれ、創作活動も思うようにいってない。そういう状況に堪えることができなかった。そんな風に解釈することもできる。
しかしこの弱さそのものが、芥川が高等遊民を否定していた証拠であるとも言える。彼は谷崎潤一郎のような徹底した耽美主義に羨望の眼差しを向けつつも、彼の耽美主義は金持ちの御曹司の道楽くさいと苦言も呈している。ポーやボードレールのような西洋の耽美主義の奥には宗教的感情がある。そして、宗教は生存の痛苦から生まれる。谷崎の書くものにはそれが感じられない。あるのは底抜けの楽観である。むしろ、自分の方がそういう苦悩をよく知っているから、耽美主義をよりよく理解できる。そんなことを言っている。美のために娘を見殺しにした『地獄変』の良秀にも、絵が完成すると首をくくらせてる。
芥川の見た宇宙は存在の苦しみと痛みに満ちた宇宙であり、そこでは真善美への願いは裏切られ続ける。宇宙が悪いのか人間が悪いのかはわからんが、人間と宇宙のあいだには埋めがたい溝が走ってる。漱石同様に、彼もまたこの事実から目を逸らすことができなかったのである。芥川自身、自分を「生活的宦官」(つまり、生活者としては去勢された人間)として卑下し、石川啄木のような歌人を高く評価している人である。日常のちょっとした出来事から宇宙的なものを感じさせる文章を書く志賀直哉に、一生頭が上がらなかった人である。和漢洋の文学に通じ、圧倒的な語彙力を有し、お話づくりの才では他を圧倒するような技量をもつ優等生的作家が、『秋』のような晩年の漱石風の作品を自分のもっとも好きな作品としてあげ、そういうものを書こうとしていた。
こうなると、漱石においては、高等遊民であることは、俗事から離れて宇宙を観照することとはぜんぜんちがう。むしろ逆であって、宇宙から目を逸らしつつ、みずからの頭の中で作り上げた真善美なる偶像に魅せられている。少年期から壮年期へ移行するのをいやがって、社会に用意されてる箱庭に閉じこもろうとしてる。苦しみに満ちた宇宙への恐怖や畏敬の念が抑圧されてる。だから、これに成功すると、大した悩みをもたずに自己満足に浸っている、堕落した聖職者にも似るようになる。『行人』の松本が言うとおり、高等遊民とは社会に巻き込まれすぎて、宇宙を見ない者たちであるかもしれない。
漱石の「恐れる男」
初期の漱石においては、真善美に献身する知識人たちは、揶揄されながらも、その道徳的権威はほぼ無批判に前提とされていた。われわれが不遇であるのは俗物に支配された社会が悪いのであって、オレたちが悪いんじゃない。われわれは道徳教師として尊敬されるべきなのに、逆に『猫』の金田君みたいな金満家や、『虞美人草』小野さんみたいな腰の座らない日和見主義者たちにバカにされてる。奴らは金儲けと立身出世のために、あらゆる原則を曲げることを厭わない。だから世の中も悪くなる。つまり、自分たちのような人間の価値が認められるようにならないかぎり、社会はよくならない。「高等遊民」を真似たがった者たちは、たぶんそうした見方に共鳴した。
だが、後期の漱石の作品においては、知識人や文化人はもはや道徳教師としての資格を無条件に主張していない。「俗物に支配される社会」対「真善美を愛する知識人」という構図が後退している。そうではなくて、自分自身の内にも巣食う俗物、真善美に憧れながらもつまらない見栄や欲望によって流される人間的弱さが、徹底的に剔抉されるような作品が増えていく。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。